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社長ブログ

2020年9月の記事一覧

日清日露大東亜(5)日露戦争序

2020年09月22日

『よもの海 みなはらからと 思ふ世に など波風の たちさわぐらむ』(明治天皇御製 明治37年)

古事記と和歌が理解できないと日本人になれないといわれます。御製とは天皇が詠んだ和歌や詩文のことです。

明治天皇の御製は九万三千首を超えています。

明治政府を簡単に言えば1867年の王政復古によってできた日本の政府ですが「薩長政府」をいわれるように維新を遂げた人たちによる政府です。ここから立憲政治へと変えていきますがそれを進めるのも当然の成り行きから「薩長」中心でした。あまり薩長が目立ちすぎても国民から不満が出るので内閣制導入も気を使ったと思いますが結果的に今でも長州の総理大臣が一番多いのです。

 

日本帝国憲法発布により憲法の条文の下で天皇は陸海軍を統帥する権限を持つことになります。

明治天皇の御心を私ごときが量るのは畏れ多いことですが近代国家になろうとしていた日本の軍隊は皇軍(天皇の軍隊)でした。新政府が初めに行ったのは、天皇を中心とする政権体制を固める事であったのです。

 

天皇の生まれ年を西暦で書くのは憚れますが分かりやすいので敢えて記すと1852年11月3日。11月3日が明治節を経て「文化の日」と呼ばれるのは明治天皇が和歌を始め文化に造詣が深かったことによります

1868年(明治元年)は御年16歳です。

1881年 ハワイカラカウア王訪問時 陛下は29歳。日本国も未熟でした。

1894年 日清戦争42歳。

1904年 日露戦争52歳。列強には遥か及びませんがようやく先進国家に近づいた時期でした。

 

ハワイの占領を傍観するしかなかったこと。欧米列強が亜細亜で我が物顔のふるまいを見せていたこと。これらを明治天皇はどんなお気持ちでみて居られたのかと思います。

そこで冒頭の有名な御製です。日露戦争開戦が決定した直後に詠まれたという説がありますが正確には わかっていません。ただし、明治天皇記にかかれた御前会議前後の天皇のご様子から決定後に詠まれたものと私は思います。意味は「四海(日本の周り近隣諸国)は皆同胞だと思うのに何故ゆえ波風が騒ぎ立つのであろうか」ということです。30余年後、昭和天皇が大東亜戦争開戦の御前会議でこの歌を2度引用されます。同じお気持ちだったということだと理解します。

日露戦争を語る前に明治天皇の開戦の詔勅(開戦に当たってのお気持ちを表した文)を現代語訳版で記します。偽らざる天皇のお気持ちが書いてあると思います。開戦の詔勅、終戦の詔勅をよく読むことが日本人としてその戦争を理解することにつながるのです。疑う人もいるかもしれませんが私は真の御心だと信じます。明治天皇や昭和天皇を好戦的な人物とみるような考えを私は強く否定します。世界一平和を愛する天皇でさえ止められないうねりが、この世の中には起こるということです。

 

-----日露戦争開戦の詔勅現代語訳-----国立公文書館 アジア歴史資料センター 引用)

「天の助けによって先祖代々皇位を継承してきた家系に属する大日本国の皇帝は、忠実にして勇敢な汝ら国民に以下のことを知らせる。

 朕はこの文書で、ロシアに対する戦争を行うことを布告する。朕の陸軍と海軍は、ぜひとも全力をつくしてロシアと戦ってほしい。また朕のすべての部下らは、それぞれの職務や権限に応じて国家の目的が達成されるように努力してほしい。国際的な条約や規範の範囲で、あらゆる手段をつくして誤ちのないように心がけよ。

朕の考えは、文明を平和的なやりかたで発展させ、諸外国との友好関係を促進することによって、アジアの安定を永遠に維持し、また、各国の権利や利益を損なわないようにしながら、末永く日本帝国の将来の安全が保障されるような状況を確立することにある。これは朕が他国と交渉する際に最も重視していることがらで、常にこうした考えに違反しないよう心がけてきた。朕の部下らも、こうした朕の意思に従ってさまざまな事柄を処理してきたので、外国との関係は年がたつにつれてますます厚い親交を結ぶに至っている。今、不幸なことにロシアと戦う事になったが、これは決して朕の意志ではない。

 日本帝国が韓国の保全を重視してきたのは、昨日今日の話ではない。我が国と韓国は何世代にもわたって関わりをもっていたというだけでなく、韓国の存亡は日本帝国の安全保障に直接関係するからでもある。ところが、ロシアは、清国と締結した条約や諸外国に対して何度も行ってきた宣言に反して、今だに満州を占拠しており、満州におけるロシアの権力を着実に強化し、最終的にはこの土地を領有しようとしている。

 仮に満州がロシア領になってしまえば、我が国が韓国の保全を支援したとしても意味がなくなるばかりか、東アジアにおける平和はそもそも期待できなくなってしまう。従って、朕はこうした事態に際して、何とか妥協しながら時勢のなりゆきを解決し、平和を末永く維持したいとの決意から、部下をおくってロシアと協議させ、半年の間くりかえし交渉を重ねてきた。ところが、ロシアの交渉の態度には譲り合いの精神はまったくなかった。

 ただいたずらに時間を空費して問題の解決を先延ばしにし、表で平和を唱えながら、陰では陸海の軍備を増強して、我が国を屈服させようとした。そもそもロシアには、始めから平和を愛する誠意が少しもみられない。ロシアはこの時点になっても日本帝国の提案に応じず、韓国の安全は今まさに危険にさらされ、日本帝国の国益は脅かされようとしている。

 事態は、既にここまで悪化しているのである。日本帝国は平和的な交渉によって将来の安全保障を得ようしたが、今となっては軍事によってこれを確保するしかない。朕は、汝ら国民が忠実にして勇敢であることを頼みとして、速やかに永久的な平和を回復し、日本帝国の栄光を確たるものとすることを期待する。」
≪御名御璽≫

 

御名御璽とは天皇のお名前のと押印のある正式な文書であることです。

皆さんは100年以上前の日露戦争開戦の詔勅を読んでどう感じましたか。日本を取り巻く環境が今も当時もそれほど変わっていないと思いませんでしたか。今世界は帝国主義の時代ではありません。しかし戦争も侵略もなくなっていません。(表立ってドンパチやらないだけです)日本は日米同盟がありアメリカに守ってもらうことになっていますが、日本のためにアメリカの若者の血が流れることをその家族が許すでしょうか。大国の思惑で小国が翻弄されるということは今も昔も変わっていません。

戦うくらいなら占領されることを選ぶという人もいます。そういう人だけが占領されてくれれば良いのですがそうもいきません。温故知新、歴史を知って未来に備えましょう。私たちの日本国と子孫のために。

 

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藤井一中尉のご縁で

2020年09月13日

藤井一中尉に ご縁をいただきお笑いコンビ、アップダウンの竹森巧さんと知り合うことができました。知り合って日も浅く、お会いしたことも数度しかありません。相方の阿部さんともお会いしたことはないのですが竹森さんの表現者としての才能はお笑いの部分だけでなくシンガーソングライターとしてもなかなかのものです。

 

そんなお二人が共鳴して伝えていかなければならないと思ったのが陸軍の特攻機地であった知覧から昭和廿年五月二十八日に出撃された藤井一中尉と小川晃少尉のこと。二人芝居音楽劇『桜の下で君と』という作品です。劇はフィクションですから関根一郎中尉と久保玄七少年飛行兵になっています。

 コロナ禍で講演活動ができずYoutubeで無料配信(9月22日までですが)されています。

https://www.updown-sakura.com/

私に発信力がないため拡散できず申し訳ないですが皆さんに一度見ていただきたい作品です。(無料配信ずっとやったらいかがですか?費用はクラウドファンディングで)

 

発信力と行動力もちろん才能も、すごく羨ましいです。たくさんの人にいろいろなことを知ってもらいたいと思っても、知っていただければきっと意義のある情報なのにということも一般人ではなかなか伝えることはできません。お二人の活動を通じて、このお話が世に広まることを望みます。どうか今後もいろいろなテーマがあると思いますが『桜の木の下で君と』が演じ続けられますように。

 

私の意見も一つ述べさせていただきます。

大東亜戦争にまつわる記録や伝聞が多くの映画やドラマ、教育者や語り部によって現代を生きる多くの戦争を知らない世代に伝えられています。しかしその多くは2度と日本が戦争を起こしてはならないという方向に偏るあまり、当時の為政者であった軍の上層部をはじめ政治家や天皇の責任と、それに乗せられて被害を受けた一般人や赤紙で募られた軍人軍属のような対立の構図になっていないでしょうか。皆さんの心の中に無意識のうちに植え付けられていないでしょうか。

 

私は公教育を受けて社会に出、二十代後半に韓国に10回ほど仕事で行く機会があったのですが、韓国人と普通の会話をするときでも何か壁を感じたし何となく罪悪感のようなものが自分の中にあることに気づきました。私だけかもしれませんが、これが戦後教育の負の成果だと思います。

 

回りくどくなってしまいましたが、日清日露大東亜の記事が完成したら理解していただける人が増えるかもしれません。大東亜戦争だけを戦後教育史観でみれば無謀な戦争に突っ走った日本が亜細亜にも自国民にも取り返しのつかない迷惑をかけたということになるでしょう。しかし我々はそろそろその史観から卒業したらどうでしょう。

 

ものの見方には一方から見たのでは真実は見えてきません。戦中に生きた人は、起きていた事実は見たのでしょう。焼夷弾が降る中防空壕に逃げた話は私の母さえします。ただそういう人が真実を理解しているとは言えないのです。戦後、教科書を黒く塗った世代(一般の人)はむしろ戦争の真実を知らない人が多いのです。今我々は当時を生きた人より真実に近い情報を得ることが出来る立場にいます。それを皆が知るべき時期が来ています。

 

劇中にも出てきましたが、多くの人の死を無駄にしないことが現代を生きる我々の使命です。無駄にしないとは単純な反戦に走ることではありません。『後の日本をたのんだぞ』託されたのは誰ですか、私たちには責任があります。無抵抗に蹂躙されろと言われたのではありません。日本の国体を護ってくれと言われたのです。

 

 

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日清日露大東亜(番外太平洋)ハワイ申し訳ない。

2020年08月29日

アヘン戦争(1840年)アロー戦争(1856年)日清戦争(1894年)と清が戦っていた頃 太平洋で起こっていた事。

 

ハワイやグアムは何故アメリカなのでしょうか。アングロサクソンの強欲には重ね重ね恐れ入ります。ハワイにカメハメハ大王がいらっしゃったことを知らない人はいないと思いますが、大王はアメリカ人じゃありません。周辺の諸島を統一して1810年にハワイ王国を建国した元ハワイ島の酋長です。1800年代初めハワイにはキリスト教布教と捕鯨目的で列強が出入りするようになります。

白人はハワイの内政に干渉し選挙権を得て1850年頃には土地の私有化が合法になり全土の75%が白人の土地になりました。たった12年の間に。(いま日本も危ないですが)ようやくハワイの王がこの問題に気付いたのですが時遅し。1881年当時のカラカウア王は通訳一人だけを伴い人目を盗んで事前連絡なく明治天皇に拝謁します。目的は同じ亜細亜人として一致して欧米列強に対峙しようという提案をするためです。

 

当時日本はアジアで唯一列強に対抗できる準備をしていた国。切実な王は姪であり皇位の資格があるカイウラニ王女を皇族に嫁がせてでも。と願い出ます。

日本の返事は、明治維新から15年そこそこの日本には列強を敵にハワイを助ける力はないというつれないものでした。ここでも、自らを頼ってきた亜細亜人に無力だった若き明治天皇の御心が偲ばれます。

 

「さようならうるわしき日本」と日記に残して王は帰国。1887年、白人がカラカウア王宮を占拠してクーデターを起こし王は権力を失います。3割の白人のみに選挙権が与えられたハワイ。アメリカに送られた王は日本訪問から10年後に亡くなります。

 

1891年8代目リリウオカラニリ女王(涙ものの歌詞アロハオエを作られたかた)が即位しますが彼女がハワイ最後の王となります。(歌詞を読んでみてください)

 

亜細亜人と白人との摩擦によりアメリカは戦艦ボストンを派遣しホノルルは占領されました。この横暴を聞いた日本はハワイの日系人保護のため浪速、金剛の2隻の巡洋艦を真珠湾に送りボストンを挟むように投錨し抗議の意を示しました。

力をつけた軍事力でしたが遅かったのです。1994年アメリカの後ろ盾で臨時政府が独立を宣言しハワイ王国は84年の歴史を閉じます。

 

1年後、浪速は再びホノルルに寄港。新政府は浪速に

1周年の祝砲を撃つことを要請しますが東郷平八郎艦長は「その理由を認めず」として断りました。

明治の軍人として最低限の矜持を示したのです。

もちろん人それぞれ自由ですが私は米領ハワイやグアムで無邪気にはしゃぐ気にはなりません。列強に翻弄された亜細亜を想うとき、異民族の前に滅んだ国家を想うとき取り返しのつかない悲しい気持ちになります。

 

日本はまだ滅んでいませんが内部から分断しています。日本の保守の政治家からも女系天皇容認の発言が出て参ります。日本の皇統断絶(女系天皇が誕生)の時、皇室も日本人も日本列島も残るかもしれませんが、それはすでに日本ではありません。日本国は、大和の国は滅亡したのです。

 

観光で踊られるフラダンスの映像を見るとき国を失って形だけが残る虚しさ感じる人は少ないでしょう。しかし私は感じてしまうのです。おそらく私が生きているうちは大丈夫だと信じますが、そんな日本は見たくないのです。残った人たちは日本人の矜持を取り戻してほしいです。竹槍で最後の一人になっても抵抗するなんてナンセンスではありますが、気持ちだけでも持っていただきたいと思います。自分の家族、親族、地域社会を守ることが国家を護ということとつながるのです。

 

日本の皇統は神から続いています。神話を知らずして日本人を騙るなかれ。神話を忘れてはいけません。

 

 

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日清日露大東亜(4)三国干渉 臥薪嘗胆

2020年08月29日

一万人を超える死者を出し日清戦争に勝利した日本。相手にも犠牲があることを忘れてはなりませんが帝国主義のこの時代、戦勝国は敗戦国に対して賠償と戦果に見合う要求ができたのです。

日清戦争の講和会議は山口県下関市(安倍総理の選挙区ですね)の料亭で行われます。この会議で結ばれた馬関(下関の旧称)条約が現代でいう「下関条約」です。全権、伊藤博文(総理)陸奥宗光(外相)清側は李鴻章(総督)李警報(大臣)との間で結ばれました。

骨子は主に以下の4点でした。

・朝鮮の独立を認める事

・遼東半島と台湾及び澎湖諸島の割譲

・賠償金2億テールの支払い

・日新通商航海条約の締結に伴う租界地での治外法権の承認

 

亜細亜の大国清が破れたことで清を見る世界の目が変わっていきます。列強が清への干渉を更に強くしていきます。特にロシアは日本の進出を好ましく思いません。下関条約が結ばれてすぐ(6日後)ドイツやフランスと共に日本にロシアにとっての要衝でもある遼東半島を返還するように迫ります。戦争も理不尽ですが当時は帝国主義時代力のあるものが弱いものをねじ伏せる時代だったのです。新興国の日本はこれらの大国に抵抗する力がまだなかったため理不尽な要求を跳ね返すことができませんでした。遼東半島は清に返還され後にロシアが租借することになり他の列強も弱体化した清国内に次々に租借地を拡大していきます。大国に翻弄される清。アングロサクソンの露骨さには恐れ入ります。

 

日本は第一義の目的である朝鮮半島の独立は果たしました。(勝手にやったことではあるが一万人の犠牲をだして独立させる必要があったのか少なくとも当時の人はそう信じたのでしょう)

 

この列強の状況を飲まざるを得なかったのが三国干渉と呼ばれる歴史的屈辱ですが、御前会議での明治天皇のお気持ちはどういうものだったのでしょうか。力のあるものに屈する時代が令和の時代にも繰り替えされようとしていると感じるのは私だけでしょうか。これを機に日本国民の中には怒りと同時に「臥薪嘗胆」が合言葉になります。苦境に耐え忍び力を蓄えるということです。「今に見ておれ」という気持ちが国民全体にいきわたり、政府は更なる軍備増強を進めます。

ちなみに下関条約で台湾は文字通り日本の植民地になります。朝鮮は併合ですので植民地とは少し違います。日本は台湾ではじめは軍政を敷き抵抗を鎮圧し、その後民政に切り替えます。列強の植民地「支配」とは違う統治をしていきます。民政局長 後藤新平のことは自分で調べてください。嘉南大圳の八田 與一もお忘れなく。

 

一万人の犠牲を出して朝鮮を独立させた日本でしたが彼らには「事大主義」という考え方があり、それが陸続きの大国間で生きていく術だったのかもしれませんが常に強いものに迎合するのです。三国干渉に屈した日本を見て朝鮮王朝はロシアと近づきます。王朝は親ロシア、親日派は排除されるようになります。さあ、日本はまた勝手に朝鮮をめぐって日露戦争への道を歩んでしまうのでした。

 

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安倍総理辞任に想う

2020年08月29日

昨日、安倍晋三総理が辞任の意を表明されました。いくつかの点で大変ショックでした。第一に潰瘍性大腸炎という難病を持ちながら総理大臣という要職を続けられたという点。第2次安倍政権発足直後、2つの難病を持つことになった私。難病の定義は「原因不明」「完治療法がない」「進行性である」こと、社会的な死をイメージしてしまう病気を持ちながら総理大臣の職務にあたる姿に励まされてきました。総理と私の立場では相当の乖離がありますが私の一つの希望であったことは確かです。その総理が任期を残して病を理由に自らの判断でお辞めになる。命に係わる難病2個持ちの私が医師に「あと10年は働かせてください」とお願いし、同様に毎日神仏に祈っても避けられない宿命の訪れを感じないわけにはいきませんでした。自由民主党の後任はいずれ決まるのでしょうが、私の後任はどうなるのでしょう。考えてしまいます。

 

次に自民党の総理候補についてです。明治維新の影響で明治政府の初代伊藤博文から7代目まで(同じく伊藤博文)の総理は旧長州藩、旧薩摩藩が交互に勤めたのは周知のとおりです。また、最近安倍総理が更新した総理の在任期間の上位4人はすべて旧長州藩(山口県)出身者です。当然、総理大臣在任期間の県別合計では圧倒的に山口県、2位の群馬県から6位の広島までの在任期間をすべて足してようやく山口一県に並ぶ程度です。(令和2年8月)

維新が何故起きたのかは別記事に書きましたが、「日本を取り戻す」と宣言して発足した安倍政権は日本をどの程度取り戻したでしょうか、もともと安倍総理は裏方が向いていらしたのかもしれません。私には朋友の故中川昭一先生との約束を一生懸命自分なりに果たそうとされていたように見えました。「日本をたのんだぞ」の声に応えようと頑張りましたね。安倍総理は元々穏健派です。マスコミや世間がタカ派(右派)、中には極右などと言っていますがとんでもありません、逆に小泉路線を引きずった解放協調政策でした。靖国参拝も1回、拉致問題も北方領土問題も尽力に見合う成果は上がりませんでした。(効果はあったはず)

これら施策の実行には、もの言う政治家、中川昭一のような人物が必要なのです。安倍晋三総理は性格が優しすぎます。やさしさと弱さの境界は曖昧です。中川昭一先生を失ったことは大きいしいしもう戻ってきません。今後の日本の国益に適う先生のような物言えるリーダーが生まれることを祈ります。

 

明治維新は「幕府にはもう国を一つにまとめる力がない。国を強くするには一つにまとめるのだ。」という運動でした。結果、薩長をリーダーとして一つに纏まる国家づくりに一旦は成功しました。しかし日清日露大東亜を経て解体されました。日本は精神が分断されて人心を纏めることができなくなりました。外国勢力とそれに乗った敗戦利得者が作った分断社会。明治維新の志士、薩長の為政者が目指した日本では既になくなったのです。山口県出身の吉田松陰先生の志を継ぐ安倍晋三総理さえそうでしたので今後の日本の政治に期待できないのは私だけではないでしょう。私の子供、未来を担う青年に私たちは何を渡せるのか、生き残るためなら強いものに跪くような国にはなってほしくありません私たち大人が、そんな未来に道を開いてしまってはいけないのです。

 

正しいことを正しい。誤ったことを違うと言えない社会が健全であるはずがありません。日本人はたとえ事実は違っていても謝り続けろなどという理不尽な事にこれ以上、子孫を巻き込んではいけない。ましてや歴史や価値観、文化の違う国の支配を受けるような状況は避けなければなりません。次世代のリーダーには先人の目指した正しい理念に基づく正しい施策を実行できる人物を望みます。

 

最後に安倍総理 今後の政治活動にも期待しています。お身体をいたわりながら少しでも長く国家国民のためにご尽力頂きますようお願い申し上げます。ありがとうございました。

 

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令和2年 敗戦の日に想う

2020年08月15日

今年の8月15日は75回目の敗戦の日です。テレビ報道で私の住む熊谷が14日に最後の空襲を受け266人が亡くなったと紹介されていました。「日本の一番長い日」のように熊谷が空襲を受けた時点で既にポツダム宣言受諾が決定しており、被災された方の無念を思い心が痛みます。

 

「戦争は2度と起こしてはいけない。」当たり前です。

戦争は誰も幸にしません。全家族を不幸にする争を文明人が許せるはずがありません。私たちはそう教えられ、自らもそう考えます。しかし、理不尽な暴力に対してどう対処してよいのかも学ばなりません。

別考でも書いていますように、日本が過去の戦争にどのようにして巻き込まれたのか、何故侵攻したのかを学ばずして自虐史観ばかり刷り込んでいけば現在進行形のウイグル、チベット、香港、台湾、沖縄その他の紛争地同様、世界から見放されて強者に跪くしか術はなくなるでしょう。

 

少なくとも私たちのお盆で帰ってきている先祖の御霊は、その道に坑(あらが)ったのです。

その後祖先の全てを否定して次の紛争の時に甘んじて侵攻を受け入れるというのは、少なくとも私にはできません。他国は絶対に助けてくれません。自国の利益にならないことはしません。見返りを求めない正義の味方などいないのです。いるとしたら少なくとも旧日本人にはそのような気持ちもあったかもしれません。先に挙げた国や地域の人々の現状を見てください。

 

話せばわかる世界ではないこと、少しずつ分かってきたでしょう。外交力も経済力も低下している日本、話し合いでは解決できない侵攻が既に始まっています。抗わなければ飲み込まれるのです。特に日本を助けることに外国がメリットを見出さなければ見て見ぬふりをされるのです。これが現実なのです。米国人が日本のためになぜ血を流さなければならないのですか。日本人が後方で支援して米国人を前線に送って日本のために防御させるなぞ米国の家族が許しません。日本が守り切れなかったとき米国の国益のために彼らは戦うのです。

自国が血を流してでも守るのか、戦わずして白旗を上げるのか。日本人も考えておかなければならない時期に来ています。

 

大東亜戦争敗戦75年。一番いけないことは戦争に負けたこと。戦争を起こさなければ負けもなかったのですが、ハルノートを受け入れていたらどうなっていたか。今の亜細亜がこの形で存在したでしょうか、日本はどうなっていたでしょうか。それを分析せずに、一番大切な今の国際状況から日本の将来を予見せずに、コロナで人が死ぬことで大騒ぎしているのが大変不謹慎ですが可笑しく思えてしまいます。

 

そんなことよりもっと大きな人権蹂躙や政治的殺人が起こっているのにそれを知っている人たち、政治家やマスコミが無視し続けるのは何故でしょう。ジョヨボヨ王の予言の「白い衣をつけた黄色い人」の力が今の日本人にはありません、いつか日本人の正義感に再び火が付くことを願います。

 

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近づく敗戦の日に思う。

2020年08月11日

8月15日が迫ってくると年齢のせいでしょうか涙もろくなります。地方にもよりますが、お盆と敗戦の日が重なるのは因縁でしょうか。私はいつも思うのです。大東亜戦争を始めたのも敗れたのも当時の為政者に原因がありますが、それに至った日本の実態を知る人があまりにも少ないと。

 

現在、ここ数百年間の国際的な近代化の中で日本が、世界が、どのように動いたために我が国が大東亜戦争に踏み切らなければならなかったか正確に言いえる人はどのくらいいるでしょうか。それを知るのは書物によるしかありませんが人はそれぞれの立ち位置によって書物を選びます。歴史学者と呼ばれる人は学問として研究しているはずですが、同じ書物を読んでも認知バイアスによって感じかたは様々です。

 

この認知バイアスは時々の為政者も持っていたはずです。歴史は認知バイアスによって形成されたと言っても良いのです。かくいう私も普通の会社員でありますが以前告白しましたように中高生の頃は左傾偏向教育を受けて育ったので、かなりの左思考でした。その反動で今は強い保守意識を持っています。

 

論語に『子曰わく、過ちて改めざる、是を過ちと謂う』『過ちては則ち改むるに憚ること勿れ』とありますが、過ちとは何か改める方向は何処か決めるのも自身の価値観ということになります。この点も認知バイアスを無視できません。せめて自分には何らかのバイアスがかかっていると自覚して悔い改める必要があります。私のように一瞬で真左から真ん中に戻ることもできるのです。

仕事柄、計測器には校正という工業規格に準拠する誤差を調整しなければならない決まりがあります。これを行わないと誤差が蓄積していき計測結果の正確性が担保できません。基準器にてどれだけ誤差が出ているかを判定し調整し校正証明を行います。

 

機械なら基準器に合わせればよいのですが人間の思考はどうでしょう。校正して一律に調整するというのは何だか怖いですが、その基準器が間違っていたらどうなるか。基準器が人間なのですから誰が調整してくれるのですか。我々は為政者を選ぶとき余程このことに注意しないと大変なことになります。

ちなみに私の校正器は「広く社会の公益にかなうこと」「我欲から出た発想ではないこと」の2点です。

75年前の敗戦も79年前の開戦も長い歴史の流れの中で為政者が決めたことであり背景には国際情勢に翻弄される近代国家になりたての黄色人種国家日本の世論があった訳です。今は人種差別がいけないことは当然ですが当時、人種差別はあって当たり前の時代でした。これに異論を唱える者こそ異端者だったのです。時代で価値観は変わります。当時の人を責める権利は現代人にはないのです。

 

様々な偏見と認知バイアスによる人間の思惑が地球のプレートのように動き、蓄積した歪みは大地震という形で解放されます。歪みの蓄積が大きければ戦争になりますが、歪みが小さいうちに開放していけば小さな地震(紛争)程度で修正されます。ただしプレートは動いていますから世の中の状況は知らず知らずのうちに変わっていきます。

 

現在の戦争は歪みを大きくためて敵基地を攻撃し兵隊さんを運んで白兵戦を行うものではありません。政治や経済、マスコミを侵食しソフトパワーで相手を屈服させることで歪みを解消し、気づいてみたら陸海の地図の色が変わっているというものです。そういう意味では今はすでに戦時中なのです。

 

昨日、香港の民主活動家 周庭氏が逮捕されました。大変お気の毒ですがChinaの内政問題なので口出しできません。そもそも未だにアヘン戦争やアロー号戦争などで欧米がChinaに租借地を持っていたことが正当化されるのは何故でしょう。日本がこれをやっていたら絶対に許されないのに。

 

香港はChinaに返還され条件に50年間の一国二制度が入っていたのです。強引な感じは否めませんが、いずれChinaの体制に組込まれる運命でした。欧米とChinaの間で翻弄された地域。台湾も否、日本だってまた大国に翻弄されるコマになる可能性が大きいのです。

大東亜戦争前と何ら変わっていません。大国の間に揺れる日本乙女。当時より深刻なのは政治も経済もマスコミも教育もどちらの大国に対しても声を上げられないのは何故か。特にChinaに対して行動を起こすことはできません。それだけ各分野が侵食されているのです。そういう意味で当時より厳しい状況なのです。自国を守ることを他国に依存したら、他国の言うことに従わなければならない。経済を握られて教育と言論に制限をかけられたら反論さえできないのです。

 

大東亜戦争で戦死した将兵の7割以上が戦闘ではなく飢えや病気で亡くなったこと。沖縄や広島、長崎、東京をはじめ日本中で無辜の女性や子供たち一般市民が何十万人も殺されたこと。このことで誰かを責めるのではなく、この犠牲の上に今の我々の生活があるのだと考えましょう。私たちはこの尊い命と引き換えに何を学んだのでしょう。日本は独立を保つために戦いました。おかげさまで何とか形だけ独立を保っています。しかし命を懸けて独立を護ることが今の日本人にできるでしょうか。できなければ日本列島は波に翻弄され流れ着く小舟と同じです。

 

先人が守った自由と独立。現代の日本人は、その礎の上に立っているのです。75年前の戦争で犠牲になった数百万人の日本人が様々な思いで支えてくださっている、私たちもその想いを引き継ぐのだということを考える夏にしたいものです。

 

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「海の日」と「スポーツの日」に想う

2020年07月24日

令和2年は東京オリンピック開催のため例外的に、7月23日(東京五輪開会式前日)が「海の日」7月24日(開会式当日)が「スポーツの日」になりました。

 

「海の日」は雨だったので久々の国旗掲揚です。

 

以前も書き、最近Twitterというものをやっているのでそこでも書いたのですが、全く反響のない #海の日 について再度お話しておきたいと思います。

Twitterの仕組みがよくわかっていませんが コメントが何処に挙がっているのか理解していないし読まれた形跡もないので、「こんなのコメントして意味があるのか」と思い始めた今日この頃です

「海の日」は平成8年施行された比較的新しい祝日で「海洋国家日本」にとっては重要な日です。元は明治天皇が明治丸で東北巡幸の航海をした「海の記念日」です。日本には6,852の島があるのです。人口が減っても島は減りません。この島もその周辺も国土領海なのです。それを守るっていうことがどれだけ大変なのかわかりますよね。

旧文部省唱歌に「われは海の子」という、とってもいい歌があります。7番まで歌詞があるのですが殆どの人が知りません。何故でしょう。7番の歌詞は「いで大船を乘出して 我は拾はん海の富。いで軍艦に乘組みて我は護らん海の國」です。軍艦で海を護るという決意が書かれていますが日本を占領したGHQに禁止され復活した時は3番までになっていました。占領が解かれても憲法同様、この歌の扱いも現在に至るまで占領期のままです。China海警の接続水域航行が100日を超えました。日本人は国土や領海が守れるのでしょうか甚だ疑問です。

「紫陽花」の記事で咲き誇っていた花(実は紫陽花は花ではなく「がく」ですが)も終わって、

来年を期待せずに刈り込みました。鉢植えですから狭い庭では可哀そうですが2年に一度リセットします。今年は雨が多くキアゲハの姿もほとんど見られませんが、柑橘の枝も育ち待っています。

鬼百合.百日紅.沈丁花も元気です。

こんなに狭い庭にもヤモリやカナヘビの他、いろいろな生き物がいます。今日は小さなアマガエルがいました。どこから来るのか不思議です。この小さな生命も領土領海を守りたいという気持ちの中に含まれます。小さな命をも紡いでいくことに関わっているという 人間としての自覚。

国防を他人任せにしてきた75年。今の日本人には誰かが助けてくれると思っています。

コロナ対策でも同じ。誰かに指令をもらわないと防げない他人任せで他人のせいにする。自他を守る行動ができない理由は国防や自分の命を他人に預けた75年の結果なのです。日本人は幼い。守られる子供のままで良いと思っているから。国難に遭うとき教育の大切さがわかります。自らどう行動するか、国語・数学・歴史・地理・科学全ての要素が絡んできます。義務教育の基礎の知識があれば一致した正しい方向性の選択は個人でも可能なはずですが、日本の公教育は一致させることを嫌ってきました。だから一致できません。多様性を尊重するのは他の時にやってほしいのです。ここは多様でなく一致する場面です。「人類の歴史は感染症との歴史」こんなことは判っていたことです。国民一致で国難に臨まないとアフターコロナに対応できません。

 

 

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日清日露大東亜(3)日清戦争(勝手に代理戦争)

2020年07月23日

だいぶ記事があいてしまいました。カメの失踪や身体の調子で少々落ち込み気味でした。果たしてこのブログを読んでくれているかたはいるのか。とも思いつつまた書き始めたいと思います。日本神話も空いてしまいました。応神天皇(誉田別命(ほむたわけのみこと))まではまだだいぶあるますが、こちらも復活したいと思います。

 

今回は日清戦争ですね。明治維新→日清→日ロ→大東亜、延いては現代までの歴史は関連しているのですから日本人として無関心ではいけません。ここに書いてあるのは私見です。興味や疑問を持ったら自らから調べましょう。受け売りだけではいけません。

昔から言われるように、地勢的に朝鮮半島は日本列島に突き付けられた匕首(あいくち)です。この地にどのような勢力が生まれるかは日本国にとってとても重要なことでした。明治維新で近代国家に舵を切った日本でしたが、この時の朝鮮半島が不幸にも非常に不安定な空白が生じかねなない状態にあったわけです。不安定な状態というのは野心を持った者に狙われやすいということです。また、国内にも様々な思惑が交錯していた時代でした。

日清戦争までの朝鮮は中国の年号を使う清に従属する半独立国でした。清の属国であったのか冊封体制下にあったかは諸説ありますが、重大な影響を受けていたことは確かです。日本にとって大国清は鎌倉時代からの脅威であり、元寇や白村江で実際に戦った相手です。その大国清がアヘン戦争で英国に蹂躙され香港の割譲(南京条約)同様に米仏にも条約を締結させられました。これにロシアが加わります。

ロシアにとっては隣国清が欧米に占領されてしまうことは脅威でした。海上経由での通商権を狙いますが失敗。ロシアはターゲットを清に絞ります。列強に翻弄される極東という手に汗を握る状況に日本は決断を迫られます。俗にいうロシアの南下が始まりました。激しく国境を恫喝侵犯する外国対し清は有効な処置を取るだけの武力も意思も失いかけてゆきます。

 

維新を遂げた日本の次なるテーマは朝鮮半島の扱いです。清を舞台とした列強との接点。朝鮮半島が落ちれば脅威は直接日本のものになります。カギを握る朝鮮半島は揺れていました。

 

「華夷秩序」という言葉があります。私がChinaを中国と呼ばない理由。中華思想とはChinaが世界の中心の華でありChinaに従属が深い国ほど上位、関係が薄いのは下劣な国という考え方です。この華夷秩序で最も強く結びついている国が清と朝鮮だったのです。(今でも朝鮮半島の人たちが日本を見下すのは華夷秩序に属さなかった日本が野蛮で下等な国としてみえるからです)

 

アジアで唯一の近代国家となろうとした日本にとって、朝鮮半島へのロシアや列強の南下を止めるには朝鮮半島に自立してもらうしかないと考えます。清から切り離す工作もしますが、朝鮮王朝も清との関係を重視する保守派(事大党及び王妃閔妃と閔氏一族)と、日本に倣い改革を実現しようとする改革派(独立党)ができて対立してしまいます。(1884甲申事変で保守派が有利な状態)

 

1894年1月、甲午農民戦争(東学党の乱(不正役人対農民戦争))が起きます。閔氏政権は清に出兵を要請。日本は天津条約(1885年 伊藤博文・李鴻章)に基づき出兵したことで日清戦争に発展します。

 

日本の派兵は天津条約に基づく合法なものであるとは思いますが、日本中心に考えると朝鮮半島を安定させるためには清を排除して独立させるしかないと考えていた日本政府が仕掛けたといわれても言い訳できません。現に明治天皇は「今回の戦争は朕素より不本意なり、閣臣等戦争の已むべからざるを奏するに依り之をゆるしたるのみ,之を神官及び先帝陵に奉告するは朕甚だくるしむ」と仰せられたと明治天皇記にあります。

大東亜戦争でもそうでしたが天皇でさえ止められないのです。いわば天皇にそれだけの権限があれば、日清戦争も大東亜戦争も起こらなかったのかもしれません。日本政府として清との戦争を決意しました。もちろん日本の国益を考えての事でしたが朝鮮半島を独立させるための代理戦争と言えなくもないと思います。(朝鮮が一致して望んだわけではないので勝手な考えであることは重々承知しています)

 

1894年7月、ロシアの南下の脅威で利害の一致する日英の間で日英通商航海条約が調印され3日後の7月19日、清国に最後通牒を送ります。日本の戦争目的は清の朝鮮への影響力を削ぐものでしたので、朝鮮内の軍事拠点平壌占領と黄海の制海権を確保した段階で目的は遂げたのですが、結果的には国境を越え清国内に入り遼東半島に上陸、旅順や大連まで占領し清国と講和します。日本の勝利です。

 

日本の直接戦闘での傷病者2,647名(うち死者736名)でしたが戦後の死者は10,841名。戦争後に疫病で亡くなった人が圧倒的に多かった。大東亜戦争でもそうでした。外国で戦うことは疫病との闘いでもあるのです。

 

清と戦争したのですから越境とは言わないかもしれませんが、朝鮮から清に越境して占領地を広げたのは

ある意味、列強の真似をしてしまいまったのです。当時はそういう時代だったのですから、現代人がそのことを責めてはいけません。ちょっと奥まで入ったのですが、欧米人には許されても有色人種には許されないということを日本人は知ることになります。それが次回、三国干渉・臥薪嘗胆のお話に続きます。

 

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日清日露大東亜(2)先ずは「明治維新」

2020年06月20日

当然歴史とは自らの立ち位置によって異なります。結果は一つですが現実に至った背景や経緯は一人一人の解釈によって異なるでしょうし、時間が経てば経つほど当時の情勢がわからぬものが評価するということになります。背景や経緯ばかりではありません歴史的事実についても評価は変わるのです。

 

初めに申しておきますが、いい国(1192)つくろうと憶えた鎌倉幕府の創建が、幕府の基本的な機能は1185年に完成していたということから今では教科書で1185年になっているそうです。

 

しかし これを「歴史修正主義」という人は

いないでしょう。後から解った事実、経緯や背景から見方は変わるのです。歴史を修正したのではなく、より当時の状況に寄り添って正しいだろうという方向に合わせたということです。現代の尺度で見るべきか、当時の状況から許容すべきかを現代そして未来の人が選ぶということです。

 

しかしここに嘘があってはいけません。嘘や噂話で当時の歴史を語るならば、先人に対する冒涜ということになってしまいます。

 

また私の回りくどい説明から入りました。明治維新の評価も思想信条からも違えば、歴史観からも異なります。判断は読む人に委ねられるので、より正確だと思うこと、より真実と信ずるほうを選択してください。教科書検定しないと選択する教科書で書かれている内容が異ってしまうのです。教科書だってそうなのです。

 

 前置きがなくなりました。明治維新はなぜ起きたのか、私は前項の連続性から地政学的な理由で極浅く説明したいと思います。関心を得た人は自分で調べましょう。知らねばならない歴史です。

江戸幕府は260年間「幕藩体制」を基に統治されてきました。鎖国も現代教科書から消えて言葉になっているそうで、国を一部限定的に開いて、大名に藩を納めさせて監視することで内戦のない260年を築いたわけです。

その前後アジアはどうだったかというと

 

 ・1571年スペインがフィリピンを

  (後にアメリカに代わる)

 ・1602年にオランダは東インド会社を設立し

   香料とコーヒーの輸出を独占、300年支配

 ・1863年にカンボジア1885年にベトナムを

   フランスが

 ・1765年インド1886年ビルマ

   1895年マレーシアをイギリスが

 

次々に植民地にされていたのです。

 

香辛料や石油など天然資源を得て本国を繁栄させていたわけです。東南アジアで植民地にならなかったのはタイくらいだったのです。清もアヘン戦争の不平等条約をきっかけに割譲や租借地として分割されていきます。

 

幕府の統治能力が低下する中、長州藩士、薩摩藩士を中心とする「尊皇攘夷」派の志士が出てきます。反政府の活動家ですから、見方によっては反逆者ですが、天皇を尊び外国を打ち払うという尊王攘夷派の存在の反対側には弱腰で外国を招き入れる危険な幕府という構図があったわけです。

 

1839年アジアの大国清と英国の間にアヘン戦争が起こります。ヨーロッパの対清の権益を実質握っていたのはイギリス。アヘン貿易を禁止する清に対してイギリスは清をアヘン漬けにしていきます。取り締まりを強化する清に砲撃を浴びせて不条理に打ち負かしました。この時割譲されたのが香港。以後香港はイギリスの植民地を経て1997年にChinaに移譲されますが特別行政区となります。(2047年まで社会主義にならない約束が今反故にされようとしていますが)西洋の軍事力との圧倒的な差は日本に伝わり幕府はこれを恐れ増々弱腰になっていき逆に攘夷派は危惧を抱き攘夷を行う意を強くしていきます。

 

日本は資源がなかった故に植民地としての魅力がなかったという説もあります。確かに天然資源も農産物も特に魅力的なものはないけれど地図を見ると地政学的には、よい場所にある島ではあります。

1853年1回目のペリーの来航で尊皇攘夷派の憂いていたことが現実になります。帆船で海運していた程度の社会に蒸気機関に大砲を付けた軍艦が黙々と煙を吐いてやってきて空砲を撃つのですからアジア人は見ただけで降参です。開国を迫るペリーに1回目は検討するということで帰ってもらいましたが約束の1年を待たずにやってきます。

幕府は結局圧力に屈し1854年に「日米和親条約」を締結。イギリス・ロシア・オランダとも同様の条約を結ぶのですが外交経験が乏しい上に外法権や関税自主権の放棄等が含まれる不平等条約であったわけです。今でも日米安保条約で不平等な内容が問題になっていますが、そういう点では日本外交は変わっていないのかもしれません。しかし攘夷派の志士は違ったのです。

 

彼らに軍艦が作れるのだから我々も作ろうとなります。1873年(明治6年)に横須賀の造船所にてフランス人の指導の下、日本初の軍艦「清輝」が起工され1875年に竣工。この辺の気概が現代人には受け継がれていないのが残念です。

薩英戦争を御存じでしょうか。1863年の生麦事件(現神奈川県横浜市鶴見区生麦で薩摩藩国父島津久光の行列を馬で横切ったイギリス人を藩士が殺傷した事件、日本では当然でもイギリス人にはわからない)の解決と補償を艦隊の力を背景に迫るイギリスと、主権統治権のもとに兵制の近代化で培った実力でこれを排除し防衛しようとする薩摩藩兵が、鹿児島湾で戦うのですよ。街はだいぶ焼かれたけれど、世界最強のイギリス海軍も横浜に逃げて行ったのだから善戦ですね。今の日本で一地方自治体が他国相手に戦争するなんて考えられませんが。

 

下関戦争を御存じでしょうか。長州藩は下関海峡を通る外国船を無差別に砲撃する攘夷を仕掛けます。1863年と1864年にイギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強連合四国との間に武力衝突を起こします。一地方自治体がまた思い切ったことをします。道州制導入ではこんなことも起きるのでしょうか。勝ち目はありませんでしたが、これを戦ってやろうじゃないかっていう気概が現代人としては理解できないながら羨ましくもあります。

 

これらの戦争で幕政下では攘夷が不可能だということを攘夷派は悟り、倒幕運動に拍車がかかります。大政奉還(政(まつりごと)を朝廷にお返ししますという意味の王政復古です)翌年の1868年、鳥羽伏見で衝突した幕府軍は薩英戦争によりイギリスと近くなった薩摩との薩長連合軍の圧倒的兵力の前に勝負にはりませんでした。そのうえ薩長軍に錦の御旗(朝廷軍旗)が揚がり幕府側が朝敵となって明治維新の方向性が決定するのです。明治維新とはある一つの現象ではなくてこれら尊王攘夷運動の主に1953年(ペリー来航)から1867(大政奉還)の約15年間に起きた改革のことをいうのです。政権を力で転覆させた一面も持っていて現代に於いては個人的に肯定できませんが進んだ道は間違っていなかったと思っています。

 

次回は日清戦争です。

 

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追悼 横田 滋 様

2020年06月14日

ここでしか発言できない私。この記事が会社のブログに載せることが相応しいのかはご容赦いただきたい。

 

いつかこの日が来るとは思っていたが6月5日に横田めぐみさんの父、滋さんが亡くなった。

心よりご冥福をお祈りします。全く無縁の身だが申し訳ない気持ちになるのはなぜだろうか。

 

横田めぐみさんと私は同じ歳、中学一年生の部活帰りに北朝鮮によって拉致された。

昭和52年(1977年)11月15日の事だ。

 

他にも拉致被害者は多く存在するが当時13歳の少女は他の被害者の証言から同じように袋に入れられて小型船で異国に運ばれ、2度と肉親に逢えぬ身となった。

13歳の自分が同じ状況だったら、どれほどの恐怖と絶望に陥るか。想像するだけで恐ろしい。そして申し訳ない。

 

当時日本国内では単なる行方不明の扱いだった。必死に探しても見つかるはずはない。北朝鮮に拉致されていたのだから。

拉致の可能性を初めてスクープしたのは昭和53年(1978年)の産経新聞だ。 この年は田口八重子さん地村さん夫妻、蓮池さん夫妻、増本恵子さん、曽我ひとみさん、他が拉致された年でもある。

 

産経の記事は日本海で男女が相次いで失踪する事件を報道したものだ。めぐみさんの拉致から1年しかたっていない。お母さんの早紀江さんが新聞社に問い合わせるものの少女単独の失踪は条件に合わないと言われてしまう。実際には拉致されていたのだが世間的に見過ごされてしまったのだ。

 

昭和55年(1980年)には同じく産経新聞が外国諜報機関関与の疑いとして北朝鮮を意識した報道をする。昭和62年(1987年)には大韓航空機爆破事件が起こり金賢姫は日本の偽造パスポートを用い、教育を受けたのは日本から拉致された李恩恵(田口八重子さんといわれている)だと証言している。

 

平成9年(1997年)同じく産経新聞が横田めぐみさんの拉致の記事を報道する。この時点で拉致から20年。拉致を疑っていたご家族の心中はいかばかりだったか。20年前に予想していた通りだったのだ。拉致被害者家族連絡会が発足し平成14年(2002年)首脳会談にて北朝鮮は日本人拉致を認めた。

 

この間の出来事を私はテレビでリアルタイムにみていた。多くのジャーナリストや政治家は、国家が他国民を拉致するはずがないと言っていた。調査も追及もしなかった。私を含め世の中も所詮他人事だった。私も今は娘がいる。同じ境遇にならなければ想像できないようでは人間ではない。恥ずかしながら自分の娘が、めぐみさんと同じ境遇だったらどうだろうと思うと、ご家族の戦いの40年はあまりに長い、しかも未だ続行中ある。

記者会見で息子さんが言った。「安倍政権が問題なのではなく、40年以上も何もしてこなかった政治家や『北朝鮮が拉致なんかしているはずない』と言ってきたメディアがあったから安倍政権が苦しんでいる」「安倍首相は動いてくださっている。何もやっていない方が政権批判するのは卑怯(ひきょう)だ。的を射ていない発言をするのは、やめてほしい」という言葉。安倍首相を攻める気持ちがあった私も反省することにした。

 

他国でこんな状況が起きたらどうだとよく言わる。

アメリカは本土で自国民が他国の侵入者に拉致され他事がわかったら「遺憾です」で済ませるはずがない。一人の命は地球より重いと言ってテロリストを釈放した政治家が日本にいた。本当に命が地球より重いなら。殺人よりも残酷なこの拉致問題に対して「遺憾です」とは何なのか。

 

他国は見ている。日本国は、日本国民は何をしても「遺憾です」で済ませるのだと。そんな人に国民の命と領土を預けたくはない。

幕末の西郷南洲のように命を捨てる覚悟で訪朝する政治家はいないのか。死んでもいいじゃないか。実を結ばなくても殺されても国内で負け惜しみを言っているより立派だ。個人的な意見だが、そんな政治家が一人くらい出てきてもよさそうなものだが、日本人は情けなくなったものだ。政治が機能しない以上せめて国民の総意は拉致被害者奪還で一致したいものだ。

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紫陽花

2020年06月07日

昨夜、埼玉県熊谷地方は1時間に70mm近い雨が降りました。昔からある夕立といえばそうですが、風が強くて植木が折れそうなほど揺れていました。せっかくいい色に変化してきた紫陽花も、風雨に打たれ花が うな垂れてしまっています。(写真は時系列になっています)

 

一番きれいな時期だったのですが、鉢植えなので根がしっかりしていないのです。

 

ここのところ神話ブログはお休みです。亀が行方不明になってから何故か書けなくなっています。言い訳ですが。

見にくいですが紫陽花は4つの鉢に植えられています。

妻の実家が建て替えで解体するときに庭にあった紫陽花を挿し木しました。当時は葉っぱ2~3枚だったのに、生命力の強い木です。たった4年で植木鉢を貫通して動かせません。

強い風雨で心配していたアゲハのサナギも、天候や天敵から逃れるようにプランターでサナギになっています。ここなら安心です。

メダカの水槽には蓮の花が咲き、この前まで亀の本宅だった水槽にはメダカの赤ちゃんが育っています。小さくても自然のものはたくましいものです。人間の力を借りなくても毎年咲くし、毎年生まれて自然に数が調整されます。

 

草花や小動物を見ると人間が思い上がっているように感じられ反省させられます。いろいろなことを教えられます。

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藤井一中尉のこと(4)

2020年05月28日

今日、5月28日は藤井一中尉の御命日です。75年が経った今では「天国で家族に再開した日」と言いましょうか。今年は春の彼岸に中尉と御一家の墓参を果たせました。まさか新型コロナの影響がここまで大きくなるとは思いませんでしたが、日本は英霊に守られているということを私は信じています。一人でも多くの人に知ってもらいたいと思います。後の日本のことを頼んだぞと言い残して散華された人たちのことを。

 

事はそんなに単純ではありません。特攻隊の真実を知っている人はごくわずか、私も知っているなどとは恥ずかしくて言えませんが、少なくとも私の知る限りでは悲惨な話です。美談として語られる多くは特攻に行かせた側の伝えた話が元になっており、行かされた側の話は理不尽極まりない体験ものが多いです。

 

まともに飛べない(飛行経験の乏しい)少年兵にまともに飛ぶことができない機(特攻の行われた戦争末期はまともな飛行機が少なかった)をあてがい「とにかく死んで来い」という。少年は純粋な気持ちから乗せられて死に逝く、学徒出身者は理不尽と知りながら逝く、消耗品の扱い。

急角度で船に当たることの難しさ(大変な技術だが殆ど初心者しかいないという現実)堅い船に軽い飛行機が当たるダメージの少なさ、空母を沈めるのは無理。駆逐艦や輸送船がターゲット、英米の技術によりVT信管つきの砲弾が開発される。当たらなくても飛行機の近くで砲弾が破裂してダメージを受ける。船までたどり着けない。そんなことをわかっていてとにかく死に行かせる。

 

藤井中尉は耐えられなかった。妻子がありながら、教官の身でありながら志願する。当然不受理。何度志願しても不受理。それを知った妻と毎夜の口論。ついに妻は娘を連れ心中してしまう。後顧の憂いなく夫が逝けるように。

 

報道統制で、この話は伏せられた。陸軍も中尉の志願を受け入れた。昭和20年5月28日、操縦士ではない中尉に与えられたのは、二式複座戦闘機「屠龍」通信士として小川彰少尉とともに知覧より出撃

5月28日朝7時頃、2機の特攻機がドレクスラーとロウリーに突入。1機目は戦闘哨戒任務に当った機の攻撃で撃墜。2機目は突入に失敗しロウリーとドレクスラーの間に墜落するかに見えたが機は次の瞬間にドレクスラーの真正面方向から突入、艦後部の蒸気パイプを破壊した。

 

ドレクスラーは動力が全停止し、ガソリンによる大きな火災が発生するも砲撃を続け、特攻機3機を撃墜するが艦内の乗員は閉じ込められ、外に出ていた何名かの乗員は衝撃で海中に放り出された。

つづけて別の特攻機が炎上するドレクスラーの上部構造物に突入。ドレクスラーは2機目の突入後、1分に満たない時間で船尾より沈没。乗員158名死亡52名が負傷。突入した特攻機が双発機であったとの生存者の証言あり(ドレクスラー生存者レユニオン協会とのことだがソースが見つからない) この機は「第45振武隊」二式複座戦闘機「屠龍」と見られている。

 

当日の特攻に参加した隊は別表の通り。私は英霊の皆さん力を合わせて戦った結果だと思いますし、藤井中尉も武勲をたて、お土産として家族に持って逝ったと信じます。

私が毎日通勤で通る道は、昭和19年12月14日、藤井中尉の妻、フクさん・千恵子ちゃん・一子ちゃんが横切った国道140号線、この辺りを横切ったのか、下宿先から直線で2里(8km)冬至の近い赤城おろしの吹きすさぶ暗い夜道を子供連れで何時間かけて歩いたのかと思わぬ日はありません。翌年5月28日、家族みんなが逢えたのでしょう。藤井中尉が約束通り手柄をもって。

 

米の死者も158名、全員にかけがえのない家族がいたはず。それが戦争、2度と繰り返してはなりません。藤井中尉が言っています。「後の日本のことを頼んだぞ」と。戦争に命を懸けられない日本人、屈するしかないのが現状。日支事変では自重を重ね蜂起せざるを得なくなった。政府は今、遺憾という間違ったメッセージを発しつづけています。戦後75年、実は既に戦時序盤です。後を託された我々が国の防衛を真剣に考えるべき時。政治家よ、「任を放棄するな。国難から目を逸らすな。」という気持ちの一日でした。

 

 

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日清日露大東亜(1) 日本乙女を守る

2020年04月26日

主権回復の日(4月28日)が近いので関係することを書きたいと思います。

 

日本国の形を見てください。なんとなく女性的な優しい形をしていると思いませんか。昔から「神州」「敷島」「大八洲」などと呼ばれて日本人は国土に誇りを持ってきたわけです。

 

しかし現代人の私たちは日本人であることを恥じ、

誇りを持てないように教育されてきました。

 

それは余談として、この6,852の島(周囲100m以上)から成る麗しの日本列島。火山列島故の災害を克服しながら、平和に過ごしていればよかったのですが、他国と交わるようになってから、そうは言っていられなくなってしまいました。

 

下の地図↓ 

他国からの視線で見てみると。(これは現代の国境が書いてある地図です)邪魔ですね。今の国名でロシアとChinaと北朝鮮と韓国からみると(旧満州もChinaです)この麗しい形がいかにも巧妙に配されているように思えてなりません。

現代に於いては、ロシアとChinaからみて太平洋という大海への出口を塞いでいます。ロシアは無理に日本海に張り出しているような形になっていますが、ここにウラジオストク港があります。北海道以北の海は冬凍ってしまうので軍港として自国の港をここに持つのは重要なことなのです。

 

Chinaは台湾と尖閣(沖縄とも言いだしています)が自国領であることにしないと閉塞されてしまいます。最近、半ば強引に南沙諸島のサンゴ礁を埋め領有権も主張して実質軍港を作ってしまいました。強引ですが これが彼らのやり方で、相手が引いたら出る。いったん出たら絶対に引きません。誰に何と言われようと。話し合いは通じないのです。果たして今の日本は尖閣と沖縄を守れるでしょうか。一旦乗っかられたら負けです。竹島のように。

間違っていようがどっちが正しかろうが実効支配されたら負けなのです。

地政学の話でした。領土の負け惜しみは、徐々に書いていこうと思います。知識として。しかし負け惜しみです。北方領土も竹島も やがては尖閣も正当性などあっても無意味なのです。乗っかられたら終わり。

 

日本のこの魅力的な形が罪なのでしょうね。取りたくなる形と位置にあるでしょう。ある時は出城として、またある時は防波堤として使えそうな形をしているではないですか。

 

この領土を守るのは我々日本人なのですが、武力でも、人力でも守る力を持っていません。それは私たちの国土を狙う人から考えて非常に都合が良いことなのです。日本が自分で自分を守ることを放棄している憲法。これをずっと持ち続けてもらった方が少しずつソフトに侵攻していけるわけです。武力を使わずに。

 

なんで北海道と沖縄で、国と地方を分断するような動きがあるのでしょうか。よく考えましょう。それらの分断工作や他国人と日本人が平等ではない法律。例えば日本人がChinaの土地は買えないが逆はできる。とか、ヘイトと言われ取り締まられる法律が外国人は日本人を訴えられるけれど反対(日本人は言われっぱなし)はできないとか、極々 おかしいことがまかり通っています。

 

もっと恐れるべき国防動員法です。Chinaも韓国も国防動員法(韓国は国防義務)で戦時には、全国民が軍属として戦争に加わる、ということは万一それらの国と戦時となると。日本人とそれらの国の人は、立場が全く違ってくるということです。日本人には そんな権利はないので反撃はできませんが彼らは国のための行動を起こせるということ、どんなことが起きるかは一度は考えてみるべきと思いますが、仲よくしようと個人レベルで言っても国が始めてしまうと、それをやらないと彼らは法律違反になってしまうのです。

 

今回のコロナ禍を戦争に例える人がいますが、戦争はもっと厳しいでしょう。日本人がコロナ対策で 一つになれないようでは相手から戦争を仕掛けられても、すぐ降参でしょうし、既にソフトな戦争は始まっているのです。

 

気づいていない人はボーっとしすぎです。サラミ戦術=調べてください。

Chinaは第一列島線、第二列島線を定め30~40年程度の目標を定めて進攻しています。彼らは計画を何十年、或いは百年単位かけても必ず実現させます。現在は第五列島線まで我が国の防衛白書に記載があります。この実行力は見習うべきです。南沙諸島のサンゴ礁埋めてもアメリカが何かできましたか? 船を近くに航行させるくらいのものです。Chinaのほうがしたたか。

 

私たちはこのかわいらしい国土を守りたい。

今回のことでよく分かりました。コロナ問題でどの国も自分のところで手一杯、自国が一番。当たり前ですが。

国防に関したって戦争になるくらいなら守らなくてもいいとか、経済的に生きられるなら他国に依存でもよいのではないか。などという人が出てくるのではないかと思うほど混乱して、2~3か月で、もう限界と言っています。

この動きを見ると日本乙女(私の日本列島のイメージ)は守れるか。いや一緒に守ってください。

とりあえず現実を知りましょう、勉強しましょう。

 

日清・日露・大東亜がなぜ起こったのか。そのすべてがこの一枚の地図で説明できるのです。

この地図を使って自国の立場から一方的に説明していきます。

(正確を期すため ご自分でも調べてみてください)

 

 

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日本神話(21)神やらひ 穀物・お蚕の祖

2020年04月19日

さて、天照大御神が天の岩屋戸からお出ましになり、高天原(天上界)も葦原中国(地上界)も明るさが戻りました。今のコロナ禍の世界も早く天照大御神のお出ましが待たれます。一方の須佐之男命はどうなったのでしょう。

 

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是(ここ)に八百萬(やおよろず)の神、共に議(はか)りて、速須佐之男命(はやすさのおのむこと)に千位置戸(ちくらおきど)を負(お)おせ、亦鬚(またひげ)を切り手足の爪をも抜(ぬ)かしめて、神(かむ)やらひやらひき。又食物(また おしもの)を大氣都比売神(おおげつひめのかみ)に乞(こ)ひたまひき。爾(ここに)に大氣都比売、鼻口また尻より、種種(くさぐさ)の味物(たなつもの)を取り出でて、種種(くさぐさ)作(つく)り具(そな)へて進(たてまつる)る時に、速須佐之男命、其(その)の態(しわざ)を立ち伺(うかが)ひて、穢汚(きたなき)もの奉進(たてまつ)ると爲(おも)ほして、乃(すなわ)ち其(そ)の大宜津比売神を殺したまひき。故殺(かれ ころ)さえたまへる神の身に生(な)れる物は、頭(かしら)に蚕(かいこ)生(な)り、二つの目に稲種(いなだね)生り、二つの耳に粟(あわ)生り、鼻に小豆(あずき)生り、陰(ほと)に麦(むぎ)生り、尻(しり)に大豆(まめ)生りき。故是(かれここ)に神産巣日御祖命(かみむすびみおやのみこと)、茲(これ)れを取らしめて種(たね)と成(な)したまひき。

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須佐之男命 御被避(みやはらえ)のくだり

一般的に須佐之男命は高天原から追放されたとされています。「ひげを切りて足の爪を抜かれて神やらいされた。」と書かれているのですからそう受け取られますが、これはある意味卒業というものに近いと私は考えます。もう髭も爪も必要ないので「海原を知らす」ために旅立たせた。ということです。

 

そして大氣都比売神に食べ物を乞うのですが書き下しにあるように殺してしまうのです。しかしそこから日本人にとっても大切なものが次々生まれてくるわけです。ここのとろこも日本人以外は到底理解不能な、ただの残酷物語にしか聞こえないと思います。

しかし、日本人には死して尚生きる(死以上に価値のあるものを生む)という死生観みたいなものがあるのです。去ってもっと貴いものが新たに生まれる。造化三神である神産巣日神(かみむずびのかみ)が、そこから生まれたものを種となした。(すべてのものの元と成した)ということで、ここから主に穀物と、御蚕様(おかいこさま)が生まれたのです。稲作や養蚕等 農業のはじまり。日本の生活分化の素です。

 

私の地元では昔、それは養蚕が盛んで家の周りじゅう桑畑だったものです。農家の皆さんは本当に「お蚕様」と呼んでいました。人のために命を投げ出してくれるということと、天上界から伝えられたという意味が込められていたのですね。今になってわかります。それが外国の安価な絹に押されてあっという間に廃れてしまいましたが、上皇后陛下が養蚕を古来種で行っておられたように日本人にとって養蚕とは利益に関係なくやっていかなけれなならないことなのではないですか。それを簡単に捨ててしまうことは畏れおおいことだと私は思います。ある意味、日本そのものの一部を捨てたといってもよいくらいです。

 

伊邪那美命が神避り坐(ま)したときも吐瀉物や排泄物から神々が生まれました。その時生まれた和久産巣日神(わくむすびのかみ)の子(みこ)が豊宇氣毘売神(とようけびめのかみ)。天照大御神をお祀りする伊勢神宮の外宮に鎮まります。

 

食物を司る神という意味の御饌都神(みけつかみ)であり、外宮のみにある御饌殿(みけでん)では、(みけ=御食=食べ物のこと)毎日午前8時から午前9時までにかけての朝大御饌。午後3時から午後4時までにかけての夕大御饌の毎日2回、天照大御神をはじめ、豊受大御神、各相殿神(あいどののかみ)、各別宮の神々に大御饌(おおみけ)を捧げています。
このお祭りは「日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)」といい、禰宜(ねぎ)1名、権禰宜(ごんねぎ)1名、宮掌(くじょう)1名、出仕2名により奉仕されています。1500年以上も欠かすことなく、太古の方法で火を熾し土器を使って調理してお供えします。

 

大氣都比売神(おおげつひめのかみ)と豊宇氣毘売神(とようけびめのかみ)は古事記にのみ書かれている(外国向けの日本書紀には書く必要がなかった)穀物神です。大切な日本の生活文化・食文化の祖の神なのです。

 

本日はここまでと致します。

 

 

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「明朗と軽薄」 感染禍の日本人道徳を考える

2020年04月12日

日本人にとって希望となるはずだった西暦2020年(皇紀2680年)は、不幸にも現代日本人が経験したことない大禍の年となってしまった。世界中で現在進行しているこの武漢ウィルスの終息や影響については誰も明確にすることは不可能である。ある予想によっては大変厳しい推移と結果をもたらすとされており、そうなった場合は現代日本人が精神的、肉体的に耐えうるのかと危惧するところである。

 

在宅勤務で、或いは外出自粛で時間は持て余しておられると思うので、少し長い記事を上げてみたいと思う。

というのも、

・感染対策のための自粛要請が効かない日本人について

・社会の苦境の原因を他者に押し付ける気満々の日本人について

憂慮するからである。今回の問題だけでなく今後も国難を乗り越える国民を残さなければならないからだ。

 

前者については、慶応大学病院の研修医が40名の会合を開き濃厚接触の上22名の陽性者を出したことをはじめとして、夜間に営業して集う場を提供する者、自分の理屈で行動し罹患する者、地方に移動して感染を拡大させる者が後を絶たない。前記事でも書いたように現代の日本(今の社会インフラ)に明治人が統治、生活していれば日本内の感染はここまで広がらなかったと確信する。封建的な社会ではなくてもだ。

 

日本神話の最終記事は「天照大神の天の岩屋戸籠り」の段(くだり)であったが現在の状況がまさにこれである。ここを神代の時代にどう乗り切ったのかは、ごく短く言うと 『神々が宴をひらいて天宇受賣命(あめのうずめのみこと)が裸踊りをして盛り上げて何かあったのかと岩屋戸を開いた大御神を天手力男神(あめのたじからおのかみ)が引っ張り出して結界を張ってお隠れになれないようにした』ということなのだ。

 

暗く様々な禍(わざわい)が天上にも地上にも表れていた状態でも明るい日本の神々、今の日本人にもそういうところがある。大災害の現場でも外国人が意外に思う日本人の笑顔が見受けられる。これは良い心持を引き継いるというべきなのだが大きな違いがある。それは思金神(おもいかねのかみ)の不在だ。思金神は神々の中でも叡智というべきご存在。冒頭に書いた慶応大学病院の研修医がどのような気持ちであのような行いにしたのか、なぜ今でも居酒屋の営業時間に何とか飲みに行こうとする人がいるのか、確かに天の岩屋戸籠りを明るく切り抜けたことからも明るい気持ちや希望を持つことは特に日本人ならどんな場面でも必要である。特攻機に乗り込む前に、おどけた英霊の写真を見ると心が痛むが、そんな場面でも笑って手を振って人が見えないところで涙した者がたくさんいたのだ。知恵を持った明るさ、知恵を持った行動、言い換えれば徳を持った行動。現在日本人には道徳、人徳が欠けているのである。

 

二番目の社会の苦境を他者に押し付ける気満々という筆頭はマスコミだろう。彼らは常々 今の政権には批判的である、しかしメディアしかもマスメディアというからには最も情報を集めている立場なのではないか。政権が独自の方針を示せば他国と同じようにしろと言い。日本の現状に即した対応をせざるを得ないことを知りながら、対応が遅いとか規制が甘いとか、なぜ責めることしか言わないのか。彼らは情報を集め分析し発信する力まで持っている。戦前はそれで戦争を誘導した実績まである。なぜ今、自らの責任において日本の現状では緊急事態宣言が憲法の制約から強制力を持てず、改正も現実的ではないから特措法の限度内で対応していることを報じないのだ。そして政府の力を補うように、「外出するな」「夜出歩くな」「行動履歴を全員が記録して感染を追えるようにしておけ」などと発信しないのか。先陣を切って「放送を1か月間はニュース番組に限定します」とか、ほかの時間は砂嵐(若い人にはわからない?)にしないのか大変疑問だ。

とにかくマスコミというのは本当のことを知っているはずなのに、それを報道せずに歪めるという癖がある。それは許そう。(というか若年層ではもうみな知っている)百歩譲って今こそ発信すべき。行動の徹底した自粛を連呼し80%の人との接触を削減する方法を提案するのはむしろマスコミの責任だと考えよ。そして煽るな、正確な情報を伝えよ。何々が不足するとなったら煽る、こんなになくなっていますとまた煽る。もうそういったことは止めよ、日本人に正確な情報を伝え勇気と安心を与えることが今マスコミに求められているのではないか。

 

同様に、現段階でさえ被害者だと言って、政府や自治体を糾弾するのもやめよう。私自身、零細企業の経営者であることから切迫したものがあるのはわかる。でも耐えることしかない時期もある。もっと先が見通せる段階になるまで耐えるしかないのではないか。「マスクよりお金をくれ」「もっとくれ」と今言っても現実不能ではないか。

だれかこうなることに備えていた者があったか。自分に備えや危機感がなくて事が起こった時、人に求めても時間がかかるのはやむを得ない。幸い融資は受けられるというのだから融資でしのいで後から補填や保証で返済の足しにするしかあるまい。

 

そう。誰も備えていなかったのである。映画や小説で今回のような世界は予想されていた。にもかかわらず社会も為政者も考えてこなかったのだ。未だに東京直下・南海東南海トラフの震災にさえ、備えていない。今回は世界中の問題だが震災は日本だけが沈むのだ。何故備えないのか、目に見える対策を施す時期は過ぎている。

 

グローバル化は正しかったか。コストが安ければ海外に工場を全て移してしまうようなことが正しかったか。安い労働力を海外から研修生という、まやかしやかしの制度で国内に入れることが良いことか。何もかもコストカットで物質的富を求め、国内に残すべき産業と割合について経団連と経産省は考えていたのか。急激な観光インバウンド集客のリスクを考えなかったのか。終身雇用は悪だったのか。肉体労働が割に合わない仕事だと思うのは誤りだ。机に座って何億も儲けるのが尊いのか。昔の日本人の価値観ではむしろ逆だが。楽して儲けるなどは一番卑しいことだったのだが。

さて次に進もう。今紹介したい本が3冊ここから引用と考察をしていく。精神的に明治に戻りたいのだ。前記事で上げたように日本人は台湾人に教えを乞う立場になったのだ。嘗ての日本人の心を、かつて日本人だった台湾人(日本統治時代に嫌な思いをしたり恨みがある人にはお詫びします)に残っている日本精神(リップンチェンシン)というものを今度は日本人が逆輸入して教えを乞うのだ。台湾人と日本精神 蔡 焜燦(さい こんさん)著の写真も貼っておく。三年前に亡くなった蔡先生は日本統治時代の台湾に生まれ劣化していない日本人をたくさん見られてきたので日本にも台湾にも大いに期待をされていたが、今いらっしゃったら日本のこの状態を見て嘆くであろう。

 

 

なぜ明治日本人なのか。

代表的日本人を書いた「内村鑑三」について紹介する。

1861(万延2年)-1930(昭和5年)高崎藩士の長男として生まれる。明治7年、東京外国語学校入学から札幌農学校にかけて新渡戸稲造と同級。明治11年、新渡戸稲造とともに受洗をうけキリスト教徒となる。明治17年アメリカに留学し帰国後「JAPAN AND JAPANESE」後の『代表的日本人』と翻訳された本書。日本のキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者である。

 

武士道を書いた「新渡戸稲造」は旧5千円札の肖像で有名。

1862(文久2年)-1933(昭和8年)岩手南部御用人 新渡戸十次郎の3男として生まれ叔父 太田時敏の養子になり太田家を継ぐも稲造の兄二人が亡くなった時。時敏は喜んで本家を継ぐことに賛成した。

内村鑑三らとキリスト教に入信。欧米に留学後,母校の教授となり京都帝大,東京帝大の教授をへて大正7年東京女子大学長となる。元国際連盟事務局次長。思想家・教育者である。

 

「代表的日本人」も「武士道」もキリスト教徒が英語で海外向けに書いたものであることが特徴。外国で好評を博し各国で翻訳され逆輸入で日本語にも翻訳されているという皮肉。代表的日本人は日本人の文化や思想を歴史上の偉人(西郷隆盛・上杉鷹山二宮尊徳 他)を紹介することで西洋に知らせようとして書いたもの。武士道は同じく西洋人(奥様も含む)に日本人の道徳を形作ったものを説明するために書かれたものである。

武士道などはセオドアルーズベルト大統領(良いルーズベルト・悪いルーズベルトは親戚のフランクリン)が友人に何冊も配ったほどだ。この時点ではアメリカ人も日本人との親交が厚く留学した者も多かったのに何故か昭和になって偏見が強くなったのだろうか。

 

両者とも本を書く動機に同じような記載があるのが面白い。転載させていただく。尚訳書であるので訳者によってニュアンスが異なることは当然あることを断っておく。では動機の部分の引用

 

 

・代表的日本人(鈴木範久訳)-昔の日本の教育 中江藤樹の項を引用

「私たち西洋人が諸君の教済に訪れるまで、諸君は日本でどのような学校教育を授けられていたのであるか。日本人諸君は異教徒にしてはもっとも賢明な国民にみえる。今日の諸君があるには、さぞかし道徳的、知的な教育を受けてきたものに違いない」  このような質問に私どもが母国を離れ、初めて西洋の文明人の中に立ちまじったとき、たびたび出会います。それに対し私どもは、おおよそ次のように答えてまいりました。「そう。私どもには学校教育があった。それもなかなかのものだ。私どもは「十戒」のうち少なくとも八戒は、母の膝にいる間に父の口から学んでいるのである。力は正義ではないこと、天地は利己主義のうえに成り立ってはいないこと、泥棒はいかなるものでもよろしくないこと、生命や財産は、結局のところ私どもにとり最終目的にはならないこと、学校もあり教師もいたが、それは諸君の大いなる西洋にも見られ、今日わが国でも模倣ている学校教育とは、まったくちがったものである。まず第一に、私どもは、学校を知的修練の売り場とは決して考えなかった。修練を積めば生活費が稼げるようになるとの目的で、学校に行かされるのではなく、真の人間になるためだった。私どもは、それを真の人、君子と称した。英語でいうジェントルマンに近い。さらに私どもは、同時に多くの異なる科目を教えられることはなかった。私どもの頭脳が二葉しかないことに変わりなく、沢山はないのである。昔の教師は、わずかな年月に全知識を詰め込んではならないと考えていたのである。(これは賢明なことと思う)これが私どもの昔の教育制度のすぐれた特徴の一つだった。

「歴史」「詩」「礼儀作法」もある程度教えられたが、おもに教えられたのは「道徳」、それも実践道徳であった。観念的、あるいは神智学的、神学的な道徳は、私どもの学校では決して強いられなかった。(中略)さらに私どもは、クラスに分けて教えられることもなかった。魂をもつ人間をオーストラリアの牧場の羊のようにクラスに分けることになったのは、昔の学校ではみられなかった。人間は分類してまとめることができないもの、一人一人、つまり顔と顔、魂と魂とをあわせて扱われなければならない」、と教師は信じていたように私は思われるのだ。それだから教師は、私どもを一人一人、それぞれのもつ肉体的、知的、霊的な特性にしたがって教えたのである。教師は私どもの名をそれぞれ把握していたのである。ロバと馬とが決して同じ引き具を着けられることはなかったので、ロバが叩きのめされて愚かになる恐れもなければ、馬が駆使されるあまり秀才の早死にに終わる心配もなかった。現代にみられるような適者生存の原理にもとづく教育制度は、寛大で人を愛する君子の養成には向いていないように思われた。したがって、この点に関しては私どもの昔の先生は、教育論のうえではソクラテスやプラトンと同意見だった。

そのため当然、教師と生徒の関係は、もっとも濃(こま)やかだった。教師を、あの近づきがたい名称である教授と呼ぶ事はなかった。先に生まれたことを意味する「センセイ」と呼んだ。この世に先に生まれた時点で先----------必ずしもうそうでないこともあったが--------であるのみならず、心理を先に了解した時点で、先に生まれたことになるからである。その結果センセイには最高の尊敬がはらわれていた。それは両親や藩主に対する尊敬と変わりなかった。実にセンセイと両親とキミ(君主)とは、深い尊敬をはらうべき対象の三位一体をなしていた。

引用以上。以降は中江藤樹の話につづく。

 

内村鑑三は、「はじめに」のなかで この本は日清戦争時に書いた日本及び日本人の題で刊行された書物の再版であり、わが国民の持つ長所----私どもにあるとされがちな無批判な忠誠心や血なまぐさい愛国心とは別のもの-----を外の世界に知らせる一助となることが、おそらく外国語による私の最後の書物となる本書の目的であります。

---東京都近郊柏木にて1908年--- 

と書いている。日清・日露・第一次世界大戦(日本は戦勝国側)は日本軍の綱紀が最も高く保たれていた時代。日本の軍人としてのモラルが最も称賛された時代。その時代でさえ、外の世界に正しい日本観を知らせようとしていたのだ。敗戦は悲しい。昭和では国内でさえ正しい日本軍の姿は伝わらなかった。

言っておくが明治と昭和の軍隊は別物、綱紀は乱れ矜持も低下、あれから75年の今はもう明治とは違う人種になっていると考えるべきである。渡辺京二風に言えば、この間最低2度文明はほ滅亡している。

 

 

・武士道(佐藤全弘訳)序文 引用

十数年前、ベルギーの高名な法学者、故ド・ラヴレー氏の心からのもてなしをうけ、数日その家に過ごさせてもらったさい、二人で散策していたある時のこと、話が宗教の問題に及んだ。「日本の学校には宗教教育はないということなんですか」と、尊敬する老教授は尋ねられた。私が、「ありません」と答えると、すかさず、教授は驚いて歩みをとめ、容易には忘れられない口調で、こうくりかえされた「宗教なしとは!道徳教育はどのようにしてほどこされるのですか?」私は当座その質問に驚き入るばかりだった。即座に返答できなかった。というのも、私が子供のころに受けた道徳教育は、学校で教わったものではなかったからである。そうして、私の正邪善悪の観念を成しているいろんな要素を分析するにいたって、はじめて、それら道徳観念を私に吹き込んだのは〈武士道〉だったと気がついた。この小著の直接の発端は、私の妻が、日本ではなぜこういった考え方や習慣が行われているのですかと、その理由をしばしば質問したからである。ド・ラヴレー氏と妻とに満足ゆく答えをしようと努めているうちに気付いたことは、封建制と〈武士道〉とがわからなくては現代日本の道徳思想は封印された巻物だということであった。

長わずらいをして、やむなく無為の日々を送るほかないのを利用して、私は、家庭内での会話で返した答えのいくぶんかを、今皆さんに お示ししている順序で書き下した。それは主として封建制がまだ力をもっていた、私の若い時代に教わり、聴かされたことから成っている。

引用以上。-----1899年12月 ペンシルヴェニア州マルヴァーン----- と書いている。

 

内村鑑三は「十戒」のうち少なくとも八戒は、母の膝にいる間に父の口から学んでいるのである。力は正義ではないこと、天地は利己主義のうえに成り立ってはいないこと、泥棒はいかなるものでもよろしくないこと、生命や財産は、結局のところ私どもにとり最終目的にはならないこと。と書き

新渡戸稲造は私が子供のころに受けた道徳教育は、学校で教わったものではなかったからである。そうして、私の正邪善悪の観念を成しているいろんな要素を分析するにいたって、はじめて、それら道徳観念を私に吹き込んだのは〈武士道〉だったと気がついた。と書く。新渡戸稲造は叔父の太田時敏に養子に出た。本の献辞を引用する。

「過去を敬い 武士道の行状を敬慕することを 私に教えた わが愛する叔父 太田時敏に この小著を献げる」

 

内村鑑三も新渡戸稲造も道徳は学校で教わったのではない、それぞれの私生活の中で家庭や地域から刷り込まれたものだという。具体例がいくつも本文に書いてある。それらを読めば、なるほど日本人の道徳観、正邪善悪観が民族全体で共有された理由がわかる。江戸明治の人達がどれほど生きることに真剣だったかがわかる。しかし悲壮感はない。

ここで先日お勧めした。逝きし世の面影(渡辺京二著)である。江戸-明治期の外国人の目から見た日本人の描写の書である。一過性の旅行者の手記もあれば、多年居住した役人や学者のものもある。先入観、好き嫌いも当然あって良いところばかりではない。しかし総じて「清潔である」「大人も子供のようだ」「子供が虐待されたのを見たことがない」「大人も子供のように遊ぶ」「よく笑う」「こんなに子供が幸せそうな国はない」「規律正しい」「正直で勤勉」等々

 

内村鑑三「表的日本人」 渡辺京二「逝きし世の面影」には数百年の隔たりがあるが同じようなエピソードがあるのでその部分も引用しよう。代表的日本人は「近江聖人」と言われた中江藤樹の項、西暦1600年代、逝きし世の面影からは英国人女性、世界各国を旅した有名なイザベラバードが1878年(明治11年)東北地方を旅した時の話。共に当時の交通手段であった馬子(馬の手綱を引く今でいう運転手県外どのような存在)の話。イザベラバードについては人力車夫のことも同じページにあるので書かせていただく。書くのはごく一部である。是非とも購読をお勧めする。

 

 

*「代表的日本人」中江藤樹項(時代は1600年代である)

センセイとして仰ぐべき聖人を求めて旅をする青年が田舎の宿で隣の部屋の二人の旅人の会話を聞く。

「君主の命で首府に上り、数百両の金を託されて帰る途中だった。肌身離さず金を所持していたのだが、この村に入った日のこと、日頃の習慣に反して、財布をその日の午後に雇った馬の鞍(くら)に結び付けておいた。宿に着き、鞍につけた大事なものを忘れたまま、馬子と一緒にその馬を返してしまった。しばらくして、はじめて大変な忘れものをしたことに気づいた。私がどれほど困ったか、おわかりいただけるであろう。馬子の名は知らず、探し出すのは不可能だった。たとえ探し出せたとしても、その男が、すでに金を使いつくしていたら、どうなろう。私の不注意は弁解の余地がない。君主に詫びて許される道はただ一つしかない。(人命は当時尊いものではなかったのです。)私は手紙を、一通は家老にあて他は親族にあててしたため、最期を迎える決意をかためたのである。

この言いようのない苦悩に陥っていたときのことである。真夜中遅くになって、だれか宿の戸を激しく叩く者があった。やがて、人夫の身なりをした男が、私に面会を求めていることを知らされた。その男を見るや、大変驚いた。男は、その日の午後、馬に私をのせた馬子本人であったのだ。男はすぐさま言った。

「おサムライさん、鞍に大事なものを忘れていませんでしたか。家に帰るなり見つけて、お返ししようと戻ってまいりました。これでございます」そういって馬子は私の前に財布を置いた。私は自分がどこにいるやらわからぬほどだった。うれしさのあまり我を忘れた。しかし我に返って告げた。「あなたは私の命の恩人である。命の助かった代償として、この四分の一の金を受け取られたい。命の親といってよい」 しかし馬子は聞き入れなかった。

「私はさようなものを受け取る資格がございません。財布はあなたのものです。あなたが持っていらっしゃって当然なのです。」 馬子はそう言って自分の前に置かれた金にふれようともしなかった。私はその男に是非とも十五両受け取らせようとした。しかし駄目だった。五両、二両、最後には一両を渡そうとしたが無駄だった。ついに馬子は言った。

「私は貧乏人です。このことで家から四里(16Km)の道をやってきたので、わらじ代として四文だけ、お願いするようにしましょう」 なんとかして私がその男に渡すことのできた金は、二百文だった。男が喜んで立ち去ろうとするのを、私は引きとめてたずねた。「どうして、それほど無欲で正直で誠実なのか、どうか、そのわけを聞かせてほしい。この時世に、これほどの正直者に出会うとは思いもよらなかった」貧しい男は答えた。「私のところの小川村に、中江藤樹という人が住んでいまして、私どもにそういうことを教えて下さっているのです。先生は、利益を上げることだけが人生の目的ではない。それは、正直で、正しい道、人の道に従うことである、とおっしゃいます。私ども村人一同、先生について、その教えに従って暮らしているだけでございます」

-----引用終わり-----

聖人を求めて旅をする青年は弟子にしてもらおうと思って会いに行くが、藤樹先生はただ村の教師にしかすぎず遠方から来た立派な人に頼まれるほどの人間ではないと固辞する。刀も衣類も脱ぎ、三日三晩玄関のそばで正座を続け見かねた藤樹先生の母の口添えで弟子になった。彼はのちに岡山藩御用学者となる熊沢幕藩である。 

  

 

*「逝きし世の面影」第2章 陽気な人々

イザベラ・バードは明治11(1878)年、馬で東北地方を縦断するという壮挙をなしとげるなかで、しばしば民衆の無償の親切に出遭って感動した。それは旅行中味わうことが少なくなかった不愉快を償ってあまりあったのである。

その日の旅程を終えて宿についたとき、馬の革帯がひとつなくなっていた。「もう暗くなっていたのに、その男はそれを探しに一里(4Km)も引き返し、私が何銭かを与えようとしたものを、目的地まですべての物をきちんと届けるのが自分の責任だと言って拒んだ」。新潟県と山形県境の悲惨な山中の村で、「みっともない格好の女は、休息した場所でふつう置いてゆくことになっている二、三銭を断固として受け取らなかった。私がお茶ではなく水を飲んだからだというのだ、私が無理に金を渡すと、彼女はそれを伊藤(同行の通訳)に返した。山形の手の子という村の駅舎(当時の駅舎は馬の中継所-本間注)では、「家の女たちは私が暑がっているのを見てしとやかに扇をとりだし、まるまる一時間も私を扇いでくれた。代金を尋ねるといらないと言い何も受けとろうとしなかった。・・それだけではなく、彼女らはひと包みのお菓子を差し出し、主人は扇に自分の名を書いて、私が受け取るよう言ってきかなかった。私は英国製のピンをいくつかしか彼らにやれないのが悲しかった。・・私は彼らに、日本のことをおぼえているかぎりあなたたちを忘れることはないと心から告げて、彼らの親切にひどく心うたれながら出発した」。   秋田県の北部で洪水に出くわして難儀したバードはこう書く。「私は親切な人びとがどこにでもいることについて語りたい。二人の馬子はとくにそうだった。というのは、私がこんな僻地でぐずぐずせずに早く蝦夷に渡ろうとしていることを知って、彼らは私を助けようと、できることは全部してくれた。馬からおりるときやさしく支えてくれたり、のるときは背中を踏み台にしてくれたり、赤い苺を手に一杯摘んできてくれたりした。それはいやな薬っぽい味がしたが、食べるのが礼儀というものだった」。彼女は「馬子が、私が雨に濡れたりおどろかされたりしないように気遣い、すべての革帯とをしっかりゆわえていない品物が旅の終わりまでちゃんとしているかどうか、慎重に眼を配る」ことに、そして「心づけを求めてうろうろしたり、一杯やったり噂話をするために足をとめたりはせずに、馬から手早く荷をおろし、陸運会社の代理店から伝票をもらって家路につく」ことに、さらに「彼らがお互いにたいして、とても親切で礼儀正しい」ことに好感を抱いた。ちなみに彼女は陸運会社の駅馬を利用したのである。馬子だけではない。彼女は「人力車夫が私に対してもおたがいに対しても、とても親切で礼儀正しいのは、私にとって不断のよろこびの泉だった」と書いている。彼女は東北・北海道の旅を終えて今度は関西に向かったのだが、奈良県の三輪で、三人の車夫から自分たちを伊勢への旅に傭ってほしいと頼まれた。推薦状ももっていないし、人柄もわからないので断ると、一番としさかさの男が言った。「私たちもお伊勢詣りをしたいのです」。この言葉にほだされて、体の弱そうな一人をのぞいて傭おうと言うと、この男は家族が多いうえに貧乏だ、自分たちが彼の分まで頑張るからと懇願されて、とうとう三人とも傭うことになった。ところが「この忠実な連中は、その疲れを知らぬ善良な性質と、ごまかしのない正直さと、親切で愉快な振る舞いによって、私たちの旅の慰めとなったのである」。伊勢旅行を終えて彼らと大津で別れるときが来た。彼らの頭である「背の高い醜い男」について彼女は書いている。「この忠実な男と別れなければならぬのかとどんなに残念か、彼のいそいそとした奉仕、おそろしく醜い顔、毛布を巻き付けた格好がもう見られなくてどんなにさびしいか、言いあらわせないほどだ。いやちがう。彼は醜くはない。礼儀と親切に輝く顔が醜いということはあり得ない。私は彼の顔が見たいし、またイエスが幼な児について「天国にあるのはかくのごとし」と語られたように、ある日彼について語られることがあるようにと希むものだ」

バードは言う。「ヨーロッパの国の多くや、ところによってはたしかにわが国でも、女性が外国の衣装で一人旅をすれば現実の危険はないとしても、無礼や侮辱にあったり、金をぼられたりするものだが、私は一度なりとも無礼な目に逢わなかったし、法外な料金をふっかけられたこともない」

-----引用終わり-----

「逝きし世の面影」は600頁ほどの本であり、多数の外国人が様々な日本について語っている。ここに紹介したのはそのうちのたった2頁である。しかし全体的に日本について同様の印象を持ったものが多い。その中には先にも言ったように日本嫌いやある方向の先入観を持って日本人を見ていた人たちさえも語っていることだ。

実際に滅亡した日本人がかつてはそこに無数存在したということだ。

 

 

最後に「逝きし世の面影」第1章 ある文明の幻影から 引用したい。

チェンバレンは明治6年(1873)に来日し明治44年(1911)年に最終的に日本を去った人だが1905年に書いた

「日本事物誌」第5版のための「序論」の中で、次のように述べている「著者は繰り返し言いたい。古い日本は死んで去ってしまった、そしてその代わりに若い日本の世の中になったと」。これはたんに、時代は移ったとか、日本は変わったとかいう意味ではない。彼は一つの文明が死んだと言っているのだ。だからこそ彼は自著「日本事物誌」のことを古き日本の「墓碑銘」と呼んだのである。「古い日本は死んだのである。亡骸を処理する方法はただ一つ、それを埋葬することである・・・このささやかなる本は、いわば、その墓碑銘たらんとするもので、亡くなった人の多くの非凡な美徳のみならず、また彼らの弱点おも記録するものである」

中略

日本における近代登山の開拓者ウェストンも大正14年(1925)に出版した「知られざる日本を旅して」の中で次のように書いている。「明日の日本が、外面的な物質的進歩と革新の分野において、今日の日本よりはるかに富んだ、おそらくある点ではよりよい国になることは確かなことだろう。しかし、昨日の日本がそうであったように昔のように素朴で絵のように美しい国になることは決してあるまい

-----引用終わり-----

チェンバレンもウェストンも、日本文明の滅亡を見届けた人である。当事者(日本人)は滅亡を気づけなかった。

外国がもたらした産業革命、唯物主義が それまでの唯心主義をウィルスのように食いつくし滅んだことを。

 

 

外国人が予言したように、物質的には確かに豊かになった。一家に一台以上自動車を所有し、飽食と言われるような食べ物の30%はゴミになるような豊かさ。何も物を生産しなくても巨額の富を得ることが可能になり、人生が所有の多少や損得が基準で測られるようになった。これでよいのか。私は滅びた日本の行動規範は、論語・朱子学・陽明学いずれも大陸の文化を日本流にアレンジしたもので日本において開花した文明と解している。

最後に言いたい。この文明の滅亡。これが他国の話だったらともかく日本としては放置は よろしくない。国柄としてよろしくないのだ。

 

他国と同じようになりましょうというのがいけないのだ。

日本人としての価値観は、モノではなくて心。尊敬されるべきは心の高さ。軽蔑されるべきは心の低さだ。

ウィルスは異国からやってくる。やってきても我々は共に一致して戦わなくてはならない。

 

教育勅語を教育の外に追い遣った日教組や革新系思想の人に言いたい。あなた達が問題だと言っているこの部分。

「一旦緩急あれば義勇公に奉じ、以て天壌無窮の皇運を扶養すべし」

は「万一国難に陥った時、国民全員が大義に基づいて勇気をもって一致協力して皇国日本を守ろう」

ということではないか。至極正しいことを言っているではないか。

 

ロケットやミサイルを使った戦争しか想像できない貧困な思想を恥じるべきだ。2000年以上続いていると私が思っている日本国が、滅びゆく姿はみたくない。どうぞ延命(日本を)させてください、そのためには私のすべてをささげます。という気持ちで神仏に祈る日々である。どうか力のある、発信力のある人が、この記事を見て国を守るには人心の刷新こそ必要ということに考えを向けていただくよう、こちらも併せて祈る次第である。

 

 

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2020春 『武漢コロナ禍の中の日本』

2020年04月04日

今年も桜が咲いた。写真は昨年アップした場所と同じく伊弉諾神社前の道。しかし今年は見え方が違う。

自分の心が違うからだ。春から初夏にかけては最も生き生きして好きな季節だが、今年は今一つ明るい気持ちになり切れない。そういう人は多いだろう。

 

外出を控えている機会に 渡辺 京二 (著)『逝きし世の面影』を読まれることをお勧めする。幕末から明治にかけての日本人が外国人にどう映ったか。現在日本人とは明らかに違う日本人がそこにいる。それを私は劣化として捉えるが、ある人から見ると(市民の権利を優先する人)進化なのかもしれない。しかし当時の多くの外国人が予言したように日本人は滅んだ。その結果がこの『武漢コロナ禍の中の日本』なのだ。

 

そんな折、インターネット上で

魔魔嘎嘎さん(@MOGAooo)さんの漫画を

台湾史.jp(@TaiwanHistoryJP)さんが紹介しているものをみた。

 

この漫画が平生私の言っている

『明治日本人最高説』を云い得ていると思ったので

引用させていただいた。

日本は1895年(明治28年)に清から台湾を割譲され統治した。(ちなみに朝鮮併合は1910年(明治43年)から)教育・医療・行政・金融・社会インフラを日本経済の身の丈以上にお金をかけて整備した。強い志を持って取り組んだ幕末-明治人がいたのだ。例として教育において

 

1.東京帝国大(明治19年)

2.京都帝国大(明治30年)

3.東北帝国大(明治40年)

4.九州帝国大(明治44年)

5.北海道帝国大(大正7年)

6.京城帝国大(朝鮮)(大正13年)

7.台北帝国大(台湾)(昭和3年)

8.大阪帝国大(昭和14年)

 

大阪帝国大学の前に 朝鮮と台湾に帝国大学を設立したことでもわかる。初めは日本人有利の教育制度であったむきもあるがやがて教育の機会は平等に近いものになっていく。

 愛国行進曲にある『四海の人を導きて 正しき平和うち建てん』という気持ちが確かにアジア唯一の5大国に名を連ねた明治日本人にはあったのだが、特に現代の朝鮮、韓国の人には大きなお世話だったのだろう。本当に大きなお世話してしまった。こればかりは当時の日本人に反省してもらいたい。

 

家庭・学校・職場 全てに於いて劣化した日本人が溢れている。(もちろんその中に私自身も含めなければならない)嘗ての日本人が範たる人々だったため劣化してもアドバンテージがあったのだ。しかしそれも使い果たした。

 

『マニュアルがないと何もできない』『マニュアルを作るのが仕事になっている』という言葉をあちこちで聞く。

実際、政治に要請されても法律で縛られないと行動も改められないではないか。だから現代日本人には『緊急事態宣言』を発令しても何も変わらないだろう。法的強制力がないからだ。憲法を変えなければ自発的に行動を改められないところまで人心が劣化しているではないか。

 

明治人が今のインフラを持っていれば武漢コロナも国内では終息したはず。法的な縛りがあっても現代の日本人は公の意識があまりに欠けている。個が増大して国家より市民が上のような意識が一部の人間(多くかもしれない)にあるのがいけない。公共や道徳が優先される時があってもしかるべきと悟るべき。時として自己犠牲も甘受しなければならないと皆が考えるべき。それが有機体としての国家国体の護持に必要。

 

残念ながら日本国(精神)はすでに何度か絶滅している。でも続いているかのように錯覚しているのは皇室が存続しているからだろう。それも女系(女性ではない)継承で滅びる。そんな日本は見たくないが幸いにして滅びる日本を見ることなく今世を終えるだろう。美しいと思える日本で生きられた事を幸いに思う。(過去形)

 

 

 

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His master’s voice   =Nipper=

2020年03月29日

フジテレビのワイドナショーのセットに ニッパーが置かれています。私が子供の頃、昭和40年代は家電は街の電気屋さんで買う時代。多くの電気屋さんのショールームにビクターのマスコット、ニッパーの姿を見かけたものです。ああ懐かしき昭和。

 

社員の皆は当然理解していると思いますが、弊社は 日本ビクター様と御縁があります。日本ビクターは現在、株式会社JVCケンウッドとなっていて我々は工場を譲り受けたのです。神棚にニッパーの枡が祀ってあることを知っていますか。お祝い物の枡2つ、益々(ますます)商売繁盛という意味でJVCケンウッド様より頂きました。

 

ニッパーの物語知っていますか。それを知らない、知らなくても済ませられるというここをが私には少し寂しく思います。JVC(日本ビクター)様のホームページにもありますがより詳しく解説しますから良く読んでください。

"His Master’s voice"(彼の主人の声)の元は 1899年2月11日に商標登録された
"Dog looking at and listening to a Phonograph"(蓄音機を見て聴いている犬)です。

 

少し切ないお話です。

 

1884年にイギリスのブリストルで生まれた仔犬は人の足を噛むので「Nipper」と名付けられました。

(工具のニッパーと同じ意)犬種はフォックス・テリア系の雑種といわれています。

初めの飼い主の風景画家 Mark Barraud(マークバロー)はニッパーが3才の時に亡くなり

弟の画家 Francis Barraud(フランシスバロー)に引き取られました。

 

フランシスは家にあった蓄音機でニッパーに亡き兄マークの声を聞かせます。小首をかしげて不思議そうにラッパを見つめるニッパーの姿を描きました。

 

ニッパーの死後(11才でした)3年目に蓄音機メーカーEdison-Bell Company(ベル社)の蓄音機を聴いている

"Dog looking at and listeninga Phonograph"(蓄音機を見て聴いている犬)として描き商標登録し同社に売り込もうとするも拒否されました。後にGramophone Company(グラモフォン社)でWilliam Owen(ウィリアムオーエン)から絵の蓄音機をベル社からグラモフォンに描きかえれば絵を買い取るといわれ、タイトルを"His Master’s voice"(彼の主人の声)とした絵が今に伝わっているのです。

 

変遷 → グラモフォン・カンパニー(レコード会社)1899年商標登録
   → ベルリーナ・グラモフォン社(親会社)1900年広告に使われる1910年最終登録
   → "His Master’s voice"の略 HMVという名のグラモフォン社小売部門設立
   → グラモフォン社→米ビクタートーキングマシン社設立 1901年
   → RCA社がビクタートーキングマシン社を吸収合併 1929年
   → 日本法人 日本ビクター蓄音器株式会社 設立 1927年 のちに親会社がRCAに
   → JVC・ケンウッド・ホールディングス株式会社を設立 2008年
   → 株式会社JVCケンウッドとなる 2011年

 

ニッパーの絵の商標権や会社の変遷は、この項では重要ではありません。
元の円筒型蓄音器は録音も再生もできるのでニッパーは亡兄の声を聴けたのですが
描き直された円盤式蓄音器は再生専用、商標登録用の絵です。しかしそれも問題ではありません。

 

亡き飼い主の声を小首をかしげて聴いて不思議そうにしている姿。円筒式蓄音機の白黒の絵。描いた人の心理も反映しているのでしょうが このニッパーのどこか悲しげな表情が、なんともいえず心に響きます。そこから何を感じるか。135年近く前に生まれた一匹の犬。その姿を大切にしてきた人々。長い歴史との縁。それらを我々がどう感じるかということが大切なのです。

1927年設立の日本ビクター蓄音器株式会社は1939年に日本初のテレビジョン受像機を完成させ今でも自ら

「時代をつくる」ブランドです。と謳っています。

 

ホームページには 『私達は、夢や感動を創造し、有機的な人との繋がりによって、人々を音楽で幸せにすることを私達の使命として、また経営理念として常に念頭に置きながら、従業員一丸となり努力とチャレンジを続けています。』とあります。

 

私たち株式会社サンエイも規模は大きく違いますが ご縁のある者として それに学び恥じぬような仕事をしていかなければならないと思います。

 

 

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藤井一中尉のこと。(3) お彼岸にて2

2020年03月21日

藤井中尉のことで不思議なご縁がありましたので記させていただきます。

お供えする花を中尉が仮住まいしていた深谷市で求めようと妻が時々行く花屋さんに一緒に行きました。私は初めてでしたが、藤井中尉の資料も持っていきました。対応に出たのは息子さんでしたが戦時中のことを聞くと御主人(お父さん)を呼んでくれました。私が藤井中尉のことを話し○○屋の○○さんの家に住んでいたのですが○○屋さんのこと ご存じないかと問うと同級生の○○君の家が昔○○屋だった記憶があるとその場で電話をしてくれました。

同級生といっても ご主人も昭和18年生まれです。

 

途中で電話を替わっていただくと正にそのかたの実家が下宿先でした。早速、翌日お墓参りの帰りにアポイントもなく寄らせていただくと、花屋さんの同級生の兄嫁さん(お兄さんはお亡くなりになったそうです)に お茶をいただいたうえ藤井中尉のお世話をしていた お義母さんの自叙伝 タイトル「有終の日々に生きて」(非買と聞きましたが3000円となっています)を お貸しいただきました。200頁のほとんどが御当家のお話ですがその中の5頁

藤井中尉家族の部分以下に転載させていただきます。

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12特攻隊藤井肇中尉 一家の悲劇

年の瀬もせまったある日のこと○○さん(○○さんのお姉さん)より次のような手紙を頂きました。

 

「昭和六十年の朝日新聞に、戦時中は実に様々な記事 の差止め命令をされていたという例として、勝井中尉の事が出ていました。それで、私はこのまま埋もれさせてしまうのは、藤井一家が浮かばれないと思い、投書しました所 取り上げられた訳なのです。

記者の方から、この悲劇を埋もれさせてはならない、世に知らせなければならない、是非協力してほしいとの電話がありました。私は○○さんなら何から何までご存知なので、お許し頂きませんのに朝日の方に紹介申し上げました。何かと ご迷感をおかけすると存じますが、お許し下さい。」

 

二、三日して朝日新聞から私に電話があり、藤井中尉のことについて聞かせてほしいとの事ですが、電話ではとても話し切れません.一応お話ししましたが、四十年経った今日では今更の様に頭に痛くひびきお手紙差し上げる必要もないとは思いましたが、何となく物足りなさで後味が悪く筆を取りました。

 

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前略

あの痛ましい藤井中尉夫人の当時の話を聞いてあげてください。

 

戦争は日々激しくなって、三ヶ尻の飛行場には沢山の兵士達が来ましたが、宿舎に困り、空室のある家は軍人に

貸すようにとの指令がありました。私どもにも奥座敷に八畳二間空いていましたので、町内会長の役柄率先して中尉に貸すことにしました。

 

中尉は○○県の農家の長男、奥さんは○○のサラリーマンの娘でした。四歳と二歳の娘さんがいました。戦争さえなければ平和な家庭が築かれていたのに、益々 戦争は激しくなりました。特攻隊員は日に日に数を憎し、敵陣目掛けて散って行きます。中尉も指を切り、日の丸に血書を書いて特攻隊に志願し、覚悟を決めていたとの事です。毎晩のように、奥さんは何とかして思いとどまる様申しましたが、覚悟は堅く堅く私が言う事など耳を貸しません。 と涙ながらに語りました。

 

その上、中尉は私の戦死の後は長男の嫁だから○○帰り、両親の面倒は勿論の事、農業もやる様にと申したそうです。戦争中の事もあってでしょうか、○○の方では畑に行くのに子供を紐で大黒柱に縛りつけて行くのだと悲痛の面持ちで私に語ります。それがどんなにか、農業もやった事のない奥さんには大きなショックを受けたのでしょう。

 

忘れもしない昭和十九年十二月十四日のあの頃は、北風が冷たく頬を刺す様な日でした。四時頃、余所行のねんねこ半纏を着て四歳の一子ちゃんの手を引いて お使いに行って来ますと出かけました。夜になっても奥座敷は真暗、そこに中尉が帰ってきました。

 

家内は何時頃に出掛けたでしょう、と聞きましたので四時頃と答えました。すぐに奥さんの実家に行きましたがいません。すぐ警察に捜索願いを出し、部下を連れて四方八方探しましたが見当らず、翌朝荒川の熊谷大橋の下流百米位のところに水死体となって見つかりました。一人はおんぶ、一子ちゃんは太い紐でお母さんと離れないように結わいつけであったそうです。砂だらけの遺体を毛布に包み帰って来ました。

 

私は三人の躯をお湯ですっかり綺麗にふいて着物を着替えさせてやリましたが、あまりにも哀れで涙もでませんでした。中尉は、しばらく遺体にすがっていましたが、すぐ後から行くからといいながら綺麗にお化粧して上げました。少しも病みませんので生きている様でした。 燈火管制の厳しい折でしたから、飛行場から毛布を沢山持って来て、八畳二間を燈の漏れない様に囲み、その晩隊長も来てお通夜をし、翌日火葬にしました。

 

両家の人たちと私の家族の者とだけでひっそりと火葬をすませました。三つの白木の箱を包む風呂敷を、私は三枚差し上げて包み、 ささやかに告別式を行い中尉は三つの遺骨を抱えて○○に帰りました。

 

 戦時中の事で誰もよく知らないのに、○○さんは若かったのによく覚えていて下さいました。もう、戦争はこりごりです。藤井中尉も特攻隊として武勲を立ててお国の為に散っていった事でしょう。

藤井中尉ご一家の冥福を祈り、世の中が情操豊かな明るい住み良い社会になる事を祈ってやみません。

終りに、朝日新聞社の益々の御発展を祈念いたします。

 

昭和六十年十二月

朝日新聞編集部 ○○様

 

**

この手紙を新聞社に送りました後、編集部の○○様は二回私どもに見えられ三ヶ尻飛行場や熊谷大橋の現場も私と一緒にみてまいりました。

このような事件はたくさんあったでしょうが、戦時中は情報は全くありませんので埋もれて失ったのでしょう。

靖国神社のあの大鳥居をくぐると、ひとりでに身近な神々が頭に浮かび涙がとめどなく落ちました。

今はもう年老いて参拝もかないません。大勢の神々のお陰で日本も豊かになりましたが、この儘何年続くやらと老婆心ながら不安を感ずる今日此の頃です。

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「戦争はもうこりごりです」という言葉が重いです。単に自分の生活が苦しかったとか、身内が亡くなったとかだけでなく、他人の悲劇も経験した人は自らの事と捉えておられるのでしょう。私は駆逐艦ドレクスラーを沈めたのは藤井中尉の屠龍だと思っていますが ドレクスラーも死者158人出していて、皆家族がいたわけです。戦勝に勝者がいるのか。戦争の勝者とは悲しいかな面の皮の厚い戦勝/敗戦利得主義者だけなのです。

 

 

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藤井一中尉のこと。(2) お彼岸にて

2020年03月21日

今年の春の彼岸は、7箇所のお墓参りに行きました。真っ先に念願の藤井一中尉ご一家のところにもうかがいました。遅すぎたなぁ と思います。大東亜戦争は遠い昔の祖先のものになりつつあります。現代の戦争はソフトな戦いです。経済や資源および人材の依存や力を背景とした威嚇によって、相手を屈服させるものになっています。現代のわれわれはそれに備えねばなりません。

 

75年前は武力を行使した戦争でした。当時の日本人は、当時の価値観の中で戦いました。しかし私の持論ですが既に大正から昭和にかけては日本人の劣化が始まっていました。簡単で申し訳ありませんが海軍は士官を特攻に行かせず温存。陸軍は海への攻撃前提で訓練していないのに机上の空論による特攻。司令官、参謀クラスはド素人の逃げ回り、陸海ともイジメ体質。結局命を差し出したのは下士官や兵ばかり。

 

藤井中尉がどうしても我慢できなかったこと、自分のことのようにわかります。でも私には絶対できなかったと思います。特攻という行為は大西瀧二郎中将のいうように統率の外道、当時でも多くの反対者がいたようにやってはならない ある意味日本軍の恥部であり同時に散華された英霊は顕彰しなければならない存在です。

 

以前に書きましたが出征はしたものの敵の姿を一度も見ることなく、病気になって戦友に迷惑をかけ湿地で足が抜けなくなったまま死んでしまったような方々が沢山いたわけです。靖国で英霊なんて呼ばれてよいのかな。と思っている方々に心からお礼します。出征していただいただけで充分英霊です ありがとうございます。

散華した英霊とそのご家族がずっと大切にされる存在なら良いのですが僅か75年で日本の墓参りも変わりました。いつまでこのような風習が残るのか疑問です。藤井中尉の墓所には彼岸の入りの昼に伺いましたが、既に献花がされていました。ご家族でしょうか ほっとしました。私は今回 許可を取って伺いましたが もうそっとしておいてほしいというニュアンスだったこと書き添えておきます。

 

藤井中尉のこと語り継いでいかなければならないと思っている方、どのくらいいらっしゃるのでしょうか。私はもちろんそう思っていますし、ある意味その役目が自分にあるのではないかと勝手に思っています。

藤井中尉ご一家のことを想う人のために、墓石に刻まれた文字を謹んで写させていただきました。個人名の部分は○○とさせていただきました。

 

 

昭和廿年五月二十八日 戦死 俗名 藤井一 行年 三十一才

昭和十九年十二月十五日 同人妻 同 ふく 同 二十五才

昭和十九年十二月十五日 一ノ長女 同 一子 四才

昭和十九年十二月十五日 一ノ次女 同 千恵子 一才

 

 

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