インテグラル型ものづくりの終焉?

世の中の会社や個々の仕事全てにアーキテクチャが存在します。この言葉自体は元々建築用語ですが、我々の業界では『設計概念』として捉えられています。世の中の会社や個々の仕事全てと書いたのは私の主観、誰もそんなことは考えていないと思います。しかしこのアーキテクチャは『理念』として全てのものづくりの中に魂として入っているものと私は信じています。

さてアーキテクチャの次はものづくりの手法としてのインテグラルとモジュラーです。
インテグラル(すりあわせ型)モジュラー(組み合わせ型)といわれインテグラルはクローズ(囲い込み)が主体、モジュラーはオープンクローズの双方が存在すると考えられています。あらゆる業界を包括して書いているので、各々の業界で協会や分類は異なると思いますが、私たちの半導体や電子モジュールの業界でいうと割りとはっきりと別れているのです。

はじめに理念の話しをしてしまったのですが『世の中にこう言うものを提案したい』『こんなものがあったらいいな』『このほうが便利なのでは』という、こんなものが全部理念、即ちアーキテクチャなのです。だから我が社特有のアーキテクトが存在し全ての形あるものはその結果生まれたものなのです。

製造方法として日本は長らくインテグラル型のものづくりをしてきました。物と物とをすり合わせて形にしていく。笑い話ではなく半導体の基板やデバイスの製作工程で、『味付け』なんていう言葉が出てきます。食べたことあるの?という意味ではありません。ものづくりで味を出すというわけです。自分の工程だけではなく他の工程と連携してすり合わせて自社の味を出す。こういうものづくりが日本のものづくりのモデル(半導体だけではなく)として得意分野で、自動車業界などもその分野です。こちらも『乗り味』なんて言ってしまったりするのです。

ところが、世界のものづくりの主流はモジュラー型に移っていたわけです。インテグラルがすり合わせが必要なためにどうしてもグループとしてクローズ(囲い込み)になりがちで変更や改善の意思決定や実行に時間がかかるのに対し、モジュール型ものづくりは得意分野の部品や製品を主にオープンな環境から選択して組み合わせて作っていくものですから、製品を短い開発時間で生産することが容易。そのために必要なのはアイデアと決断力です。

以前も書きましたが、インテグラル日本半導体がモジュラー韓国・台湾・中国(これから)に次々に破れていったのはこういう理由もひとつあります。職人技のすり合わせの必要ないDRAMやNANDなどのメモリーデバイスは大金を払って装置を揃えれば物ができる。日本は何をやっているか。利益の少ないマニアックな部品をインテグラル方式で作っているわけです。同じ装置でも違う使い方をして。だからリストラで社員が退職してしまうといきなり歩留まりが落ちるなどということも起きます。

モジュラー型はオープン/クローズ両方の形で社外(グループ)から社内(グループ)を問わず自由な発想でものづくりができるとされている一方、日本人の得意なインテグラル型はそもそもクローズ(グループ内によるすりあわせ)の環境でしか成り立たないという考え方が主流だと思われています。でも今、弊社が行っているリノベーションの現場では、お金がないもので、大きい工事を担当していただくゼネコンさんと、大工・電気・水道に関しては旧知の地場業者さんを弊社が直接お願いして共同で工事をしてもらっています。ゼネコンさんは当然利益が減っている(大幅に)地場業者さんとゼネコンさんが連れてこられる業者さんの間で立場が違う。でも、これですんなりうまくいっているんです。お互いお客様(弊社)の利益という点で一致してすり合わせて仕事をしてくれています。むしろオーバーラップしあっていい提案をしてくれます。

この形こそが、弊社トリオデザイン事業部 7つの基本方針なのです。

これは地方の小さな建設現場の話ですけど、経済産業省さん。日本工業界が、これから目指す形はどんなものなんだか聞いてみたいものです。それ考えるのが国家公務員の役目ですよね。将来、若者が日本から脱出していかなければ生きていけない社会を作ってしまったら、それは我々も含めて罪です。
『味』なんてものに価値を見出さない人を相手にモジュール型に転身してもよし、存在しないといわれるオープンインテグラルに挑戦するもよし(あると私は思っている)、私の持論ではどっちにしろ先ず ひとの道(道徳)あってのアーキテクチャが基になければならない。そうじゃないと『味』を不要と言い切る社会にはインテグラルが残る余地がなくなってしまうから、全てAIでよくなってしまう。日本人が『味』の感覚をなくしたとき、インテグラル型ものづくりが不要となって日本産というものの価値がなくなります。

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