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三島由紀夫没後50年

本日は三島由紀夫先生の50回目のご命日です。恥ずかしくも浅学の身ながら近代日本に全く興味なく本件を知らなぬ誰かの目に触れることを祈り、浅い切り口により三島由紀夫(本名:平岡公威)先生について語らせていただきます。この記事が誰かの興味を広げ深めるきっかけになれば幸いです。

自決から40年 今よみがえる三島由紀夫の表紙
「盾の会」の制服の剣は銃刀法により模型で 長さも制限されたものだった。

「かくすれば かくなるものと 知りながら 已むに已まれぬ 大和魂」
「身はたとい 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」

共に吉田松陰先生の句で後者は辞世(世を去る時に読む歌)です。松陰先生がどのようなかたであったかも知らなければ調べてください。幕末に国を憂(うれ)い、自らを犠牲にしても国を守らん。若者を導かんとしたかたです。そういう意味で三島由紀夫先生も同じような思いだったことでしょう。

三島先生が亡くなったのは昭和45年11月25日、松陰先生は安政6年11月21日(新暦)に処刑されました。近い日を選んだのでしょうか。二人の共通点は「大和魂」です。50年前の日本は学生運動が最も激しい時代。大正14年(昭和元年)生まれの三島先生は45歳でした。

平岡公威少年は良い家柄に生まれ祖母に育てられます。幼少期身体が弱く室内で文学に触れる機会が多かったこともあり学習院在学中の10代半ばではやくも才能を認められ三島由紀夫を名乗るようになります。

三島先生の肉体的に小柄で虚弱であったというコンプレックスは後に出会う美輪明宏氏の回想からもうかがわれ30歳を過ぎボディビルに傾倒し半年で外見上強健な肉体を持つようになりました。作家としては古典を徹底的に学んだ基礎の上に圧倒的な語彙と日本語力を基にノーベル文学賞候補になります。(ノーベル賞は仲人の川端康生が受賞)

天才故、一般人には行動の意図が謎とされることが多いです。私が三島先生を初めて意識したのは命日の市谷駐屯地バルコニーでの演説をする姿。テレビで見ましたが意味は分かりませんでした。当時母が神道保守系の宗教団体に入会していた関係で総裁、谷口雅春先生と共通の思想があった三島先生のことは子供ながらに聞かされていました。

三島先生は事件の3日前11月22日、谷口先生に面会を求めたのですが当日は谷口先生の誕生日で様々な催しがあり取り次がれず面会が叶いませんでした。「ただ一人、谷口先生だけは自分達の行為の意義を知ってくれると思う」と遺した三島先生。ここでお会いになっていたらと連絡があったことを知らされなかった谷口先生も残念がっておられました。

谷口雅春先生の著「占領憲法下の日本」に三島先生が寄せた序文。
「生命体としての日本国家」という言葉に共感されている。

「今に日本はとんでもない時代になるよ。親が子を殺し、子が親を殺し、行きずりの人を刺し殺してみたり、そういう時代になるよ」

美輪明宏氏が三島先生から聞いた言葉です。当時はそんな事件は殆どありませんでしたが本当に三島先生の予言通りの国になってしまいました。皇国日本を大切に考えていた三島先生は日本の将来を憂いていました。学生運動で荒れる大学。憲法上治安維持に自衛隊の出動ができません。機動隊では手に負えなくなってきて、学生や機動隊から死者が出ます。交戦権のない憲法は軍隊を否定しながら自衛隊が存在します。皇国日本のあるべき姿は日本の国体は天皇でありその天皇を守る軍隊が自衛隊でなければならないというものです。

市谷駐屯地で総監を人質にとってバルコニーで最後の訴えをします。自衛隊に決起を、憲法改正を求めて。しかし自衛隊員の野次とマスコミのヘリコプターの音で聞こえません。「人の心を動かすには地声で」ということでマイクは使いませんでした。自衛隊員の耳にも心にも先生の言葉は伝わらなかった。どんな気持ちだったでしょう。絶望したでしょう。三島先生は武士の作法に則って総監室で自害します。介錯は25歳の森田必勝ですが森田氏も後を追い。(先生は止めたのですが)介錯は荒地浩靖(旧姓:古賀)氏がつとめます。

「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである」

昭和45年7月に掲載された「果たし得ていない約束-私の中の二十五年」という記事です。

「生かせてもらえるなら主(あるじ)は誰でもいいや」「アメリカでもChinaでも恩恵を受けられればいいや」いま日本はそんな雰囲気に満たされていませんか。三島由紀夫先生、谷口雅春先生。お二人の共通点は天皇を中心とした国家観です。日本の中心には天皇がなければならないという点で一致しています。そのほかは異なる部分も多いですが私もこの考え方の影響を受けています。日本の皇統が途切れたら、天皇というものが残ってもそれは日本ではないと思っています。

両先生の悲願。自主憲法制定。

50年前の学生運動、私の立ち位置からはあの方向は間違っていたと思いますが、世の中を良くしなければならないという熱意はあったのでしょう。しかし50年後の今、若者にその熱気はありません。「からっぽな、ニュートラルな、中間色で抜け目がない日本」ただ先生。裕福な経済大国ではもうなくなっています。ここから下降線をたどることを日本人は選びました。そして先生方は信じられないかもしれませんが未だ憲法も改正されていません。自衛隊は違憲のまま法解釈で存在する公務員です。天皇を守る軍隊でもなければ、そう考える隊員の割合も非常に少なくなっているのではないでしょうか。

三島先生は、自衛隊の決起を促す目的で「祖国防衛隊」組織しようとしますが、その前段階として「盾の会」を作ります。「盾の会」で幹部を養成し「祖国防衛隊」の指揮を執る。これは自衛隊が直接治安維持出動できない隙を埋める間接侵略に備える民間防衛組織です。

先生の情熱は素晴らしいですが、当時の保守系の学生でさえそこまでの組織は作れませんでした。傍から見れば大変失礼ながら(私は決してそう思っていませんが)防衛隊ごっこで終わってしまったのかもしれません。50年後、我々は完全に骨抜きになって裕福な経済大国の地位さえ放棄して安楽を選択してしまいました。

三島先生が命を賭けて訴えたかったのは自衛隊の蜂起と言われていますが私はそうではないと思います。後世の我々に真剣に生きろ(考えろ)というメッセージを残したのだと思います。

三島由紀夫先生没後50年。谷口雅春先生没後35年の今、先生たちの想像をはるかに超えて日本は日本であることを捨てようとしています。それでもいいやといふ雰囲気に満ちています。否、そこまで考えていません。先生方に大変申し訳なく思います。私には何ができるのでしょうか。せめてブログなどという誰の目に留まるかわからないものを書いて、一人でも「それじゃいけないかもしれない」という若者に気づいてもらうことくらいでしょうか。憲法を改正し間接侵略への備えと民間防衛が、これからの日本には必要なのです。

合掌再拝。

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