少子化を真剣に考える(3) どうしてこうなったのつづき。一部脱線

たった1度 戦争に負けて日本人の善良な部分まで全否定されて信じるなんて、素直というか愚かというか、占領政策が日本でしか成功しなかったのは日本の特殊性ゆえであり、アメリカに誤った成功体験を与えてしまいました。日本は間接侵略に成功した初めてで唯一のモデルケースなのです。少子化も影響を受けています。
「分断して統治せよ」は他国統治のセオリー。個を増大させてまとまりを小さくする。(まとまらないようにする)日本は嘗て皆で力を合わせて命を掛けて戦争する厄介な国だったのです。戦勝国や隣国はこの国の力を武力を使わずに削ぐために占領中に種を蒔いた訳です。今ではアメリカに占領されていたことを知らない日本人がいるのです。その7年間の統治の中で何が行われたかも。。。

天皇にとって国民は大御宝です。もっとも大切な国民になぜ戦争させなければならなかったか開戦の詔勅を読みましょう。話がズレました。戦後天皇は象徴(お飾り)になりました。財閥は解体され財産は没収されました。農地解放で小作が土地を貰い受けましたが、売って金にしたり、放棄したりバラバラになって個人ではやっていけなくなっています。株式会社が運営して農地を大きくしたいなんて、それじゃ昔のやり方でよかったじゃないですか。(もう土地がばらばらで戻せませんが)組合ができて今は協調路線ですがちょっと昔は激しい労使対立があったものです。社員は家族と言っていた松下幸之助や明治生まれの企業人はどう思ったでしょうか。

さて、本テーマの少子化に直結の人工妊娠中絶の話ですが、女性にとってこの選択が如何に大変で心身ともに永く深く傷つくものであるかは私も身近に例がありますので知っているつもりです。やむを得ずその選択をした皆様に異を唱えるものでないことをまず申し上げておきます。

明治刑法で墮胎の罪を定めて中絶した者や中絶を介助した者には刑事罰がありました。家族や後見人が中央優生審査会、地方優生審査会に申請を行うことで絶対に中絶できないというものではありませんでしたが相当ハードルが高かったのです。敗戦直後の優生保護法において実質的に妊娠中絶は合法になりました。出産は女性の負担だから産む産まないは女性の権利のような言い方もされるようになります。1949年(昭和24年)の法改正により、経済的な理由による中絶の道が開かれたこと1952年(昭和27年)に中絶について地区優生保護審査会の認定が不要となって中絶のハードルが完全になくなってしまったということになります。
マザー・テレサは1981年、1982年と二度の来日で、この豊かな日本で中絶は必要ないとして反対を訴えています。しかしノーベル平和賞の力を以っても合法的中絶はとめられませんでした。 1996年(平成8年)の法改正により、法律名が現在の母体保護法に変更されました。

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