日本神話(9)伊邪那岐命 逃げ還る

なぜ見るなと言われると見たくなってしまうのか。神様でも見てしまうのですね。人間が我慢できないのも無理はないかもしれません。大変おぞましいものを観ました。愛しい美しい神の変わり果てた姿。伊邪那岐命は現実を見て逃げ出します。さすがにあきらめがついたのでしょう。


今回は書き下し文の前に注釈を記します。

伊邪那美神は「見たからには還すわけにはいかない」ということで予母都志許賣(よものしこめ)に追いかけさせます。黄泉の国の醜い女ということで「よもつしこめ」幽霊の原型みたいな集団に追いかけられて、伊邪那岐命は黄泉の国の出口を目指します。逃げながら頭の被り物(黒御鬘)を投げ捨てると山ぶどうが生(な)り、これを醜女が食べ時間を稼ぐ、次に美豆良という古代の男性の髪型(長い髪を左右に結いつけた形)に挿してあった櫛を撒いたて生(な)ったタケノコを食べさせて時間を稼ぎます。
最後は千五百の黄泉軍(黄泉の国からの大軍の意味)に追われ、いよいよ黄泉比良坂(黄泉とひら(昼)の国の境目)にさしかかったとき、そこにあった桃の実を3つ投げると黄泉の大軍はあっという間に逃げて行きました。

伊邪那岐命を追わせる黄泉の国のくだり (感じてください)

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於是(ここに)伊邪那岐命 見畏(みかしこみ)て逃げ還ります時に、其の妹伊邪那美神「吾に辱(はじ)見せたまひつ」と言したまひて、即ち予母都志許賣(よものしこめ)を遣はして追わしめき。爾(かれ)伊邪那岐命 黒御鬘(くろみかずら)を取り投げ棄(う)て給いしかば、乃(すなわ)ち蒲子生(えびかずらみな)りき。是を摭(ひり)ひ食む間に逃げ行でますを、猶追(なほお)ひしかば、亦其の右の御(み)美豆良(みづら)に刺させる湯津津間櫛(ゆつつまぐし)を引き闕(か)きて投げ棄(う)て給(たま)ひしかば、乃ち笋(たかむな)生(な)りき。是を抜き食(は)む間に、逃げ行でましき。且後(またのち)には其(か)の八(やくさ)の雷神(いかづちかみ)に千五百(ちいほ)の黄泉軍(よもついくさ) を副(そ)へて追はしめき。爾(かれ) 御佩(みは)かせる十拳剣(とつかつるぎ)を抜きて、後手(しりえで)に布伎都都(ふきつつ)逃げませるを、猶追(なおお)ひて黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本に至る時に、其の坂本なる桃子(もものみ)を三箇取(みつと)りて、待ち撃ちたまいしかば、悉(ことごと)に逃げ返りき。爾(ここ)に伊邪那岐命 桃子に告(の)りたまわく、汝吾(いましあ)を助(たすけ)しが如(ごと)、葦原中国(あしはらなかつくに)の所有(あらゆる)うつくしき靑人草(あおひとくさ)の、苦瀬(うきせ)に落ちて、患惚(くるし)まん時に、助けよと告(の)りたまひて、意富加牟豆美命(おおかむづみのみこと)と號(い)う名を賜(たま)いき。
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逃げ切った伊邪那岐命は桃の実に告げます。葦原中国のうつくしき靑人草(人間界の大切な人々)が苦しんでいるとき今私にしてくれたように助けなさいとおっしゃり、桃に意富加牟豆美命(おおかむづみのみこと)と名を与えたということです。そう、桃の実は「おおかむづみ」(大神の実) という神の実だったのです。桃の実は生命の象徴。具合が悪い時、桃缶が食べたくなるのはそういう事なのでせうか。山ぶどうやタケノコも強い生命力を示したものです。既に神様が葦原中国の全ての民(吾々)を大切に想ってくださっていることが伝わるくだりですね。
次は対偶神 伊邪那岐命・伊邪那美命最後のお別れに続きます。


本日はここまでと致します。

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