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株式会社サンエイ30年 社員向け文書

私の「人生の羅針盤」の記事後に社員向け文を挟んでおきます。
居室の壁に谷口雅春先生の揮毫による「百事如意」の扁額が掛かっています。これは「何事も想いのまま」というニューソート(光明思想)そのままのような言葉です。

常々、「私のブログは身内向け私が存在するうちはよいが死んだら読めよ」と言っているように。いずれ一度は完読してください。雑記はともかく「古事記」や「歴史」「人生の仕組み」等の記事は重要です。日本に生まれて日本で商売していく以上は。

新しい社員が増えました。どの会社も、日本社会全体が世代交代期を迎えていますがジェネレーションギャップが大きすぎることが問題になっています。日本社会の場合、不幸なことに過去に「根拠のない成功体験」があるので、そのまま継続とはいきません。根拠がないとは失礼ですが我々の前の団塊の世代は戦争の記憶はあっても当事者ではありません。それでいて日本弱体化の占領政策の影響を最も受けています。そのうえで経済発展の恩恵を最も受けたにもかかわらず後進には失われた30年をもたらすという。その年代の人同士で助け合い年金はいらないのではないかと思うくらい

今の若者と比較してよい思いをした年代なのです。何が言いたいのか。現代人が道を誤ると子や孫が大変苦労するということです。その子や孫が団塊世代とギャップがあって当然です。団塊世代は努力すればする程、還元があった時代でした。しかし今、個人が同じだけ努力しても同様の果実を手にすることはできません。団塊世代が連綿と続く日本という意識を無くす教育をうけ矯正することもなく唯物論的な経済を作ったからです。

海外に行ける人は一部です。若者たちはこの30年間停滞した日本で生きていかなければなりません。この30年、世界は変化しています。多くの国が右肩上がりの成長をしています。資本主義とはそういうものです。資本主義を続けていく以上、急激な右肩上がりも危険ですが緩やかに成長し続ける必要があるのです。
少なくとも日本のように減退するようなことがあってはいけません。皆さんの責任ではありませんが。

社内向け文章です。令和4年8月21日で株式会社サンエイは30歳になりました。そうです。失われた30年の中、サンエイは歩んできたのです。平坦な道で無かったことは想像がつくと思います。90年に半導体の世界シェア50%が日本でダントツでした。GDPはやがてアメリカに届くのでは言われたとき。プラザ合意と日米半導体協定によって日本経済の成長は止まります。現在の半導体シェアは5%です。その中でサンエイは起業して成長してきました。

平成4年8月21日 サンエイが起業した時の創業メンバーは現会長しか残っていません。私が創業者から聞いている話と周囲から聞く客観的事実を合わせてサンエイ創業時の状況を書くと。資金は岩瀨新午先生(当時三洋電機専務取締役)に建て替えていただいたのですが商社として立ち上がったものの売り先と仕入れ先の両方で目論見が外れ大変苦しい船出になってしまいました。

5年後に私が入社し洗浄装置の扱いを始め顧客が増えますが当時は円高により工場の海外進出が進んでいました。技術も人も海外に流出してしまったのです。国内に残った顧客企業の設備投資は新規から維持更新に変わっていきました。投資額も減少します。そんな中、予算の少ないお客様にも充分な結果をもたらせるように平成18年、行田市の賃貸工場で洗浄機の内作を始めます。この工場は鎌田晨平先生が借りていた物件の半分を使わせていただいたものです。鎌田晨平先生は、この時私に「あなたの考えは正しい。必ず成功する」と仰ってくださいました。鎌田晨平先生もまた私から見てニューソートの人そのものです。

目的は当時のトレンドであった修理や改造工事を安価に行うことだったのですが結果的に初めから新規装置も内作でき順調に立ち上がりました。統括部長も加わり洗浄機部門は4名で伸びていきます。令和元年、念願の自社工場を取得します。この時、竣工披露会を催しました。あいさつ文を添付しますので社員のかたは読んで下さい。そのような決意で本社寄居工場は立ち上がったのです。

あなたたちは主体的にストーリーを紡いでいく存在なのです。決して今の瞬間だけに生きているわけではありません。創業メンバーの想い。お客様の想い。協力者様の想い。そういったものと結びついているのです。歴史を知って
想いを紡いで新しいサンエイを作っていくのです。

前記事と順番を変えましたが。人生の羅針盤との関係をここから書きます。
扁額と同じくの壁に【社是「感謝の心」「和の心」】の額が掛かっています。
意味についてはホームページの「企業理念」社是の項に書いてありますので再読してください。
尚、この社是の文字は「岩瀨新午先生」に書いていただいたものです。

ここでは岩瀨新午先生と鎌田晨平先生について説明します。サンエイという小企業ですが支えてくださった多くの人のうちでも、このお二人はセミコンジャパンのような展示会で中心に居られたような方、日本の半導体業界に多大な貢献と影響を与えた方です。そのような方々がサンエイを大切に考えてくださっていて霊界にお帰りになられた今でも見守ってくださっていることを忘れないでください。岩瀨新午先生については創業者も私も、お彼岸は足利市への墓参は欠かしません。

岩瀨新午先生については 「日本半導体歴史館」の黎明期の人々から鎌田晨平先生については長年役員を務められた「SSIS半導体シニア協会」の機関誌2004年ニューズレターから転載させていただきました。

[岩瀨新午先生]
大正7年生まれ昭和20年、東北帝国大学理学部物理学科から電気通信省電気通信研究所入所。(旧日本電信電話公社電気通信研究所/元NTT研究所)昭和25年、日本で最初にゲルマニウム結晶を用いたトランジスタ増幅現象を確認。これはベル研究所からトランジスタの発明が公表されてから1年8ヶ月後という早さで通研でのプロジェクトリーダとしての始めての業績となる。成功のポイントは毎日諦めず、測定を繰り返したことでゲルマニウムと針の接触点に何度も電圧が加えられた結果だった。昭和27年には国産初の合金型トランジスタを開発、翌年にはトランジスタ・ラジオを展示しており、ソニーが工業製品としてトランジスタ・ラジオを販売する2年前のことである。ニューソートです。
昭和32年、三洋電機半導体研究所長就任昭和61年三洋電機代表取締役専務半導体事業本部長就任し平成2年から平成7年まで三洋電機顧問。三洋の半導体の歴史そのものです。

[鎌田晨平先生]
昭和11年生まれ農業高校にて通信教育で無線を学ぶ。19歳で上京、東海高等通信工学校で学ぶ。夜は警備員のバイトし生活費も学費も捻出。研究生名目で約3年間、東京工業大学で電子回路を学ぶ。警備員のバイトは継続。大学時代、國洋電機工業の社員教育の講義を依頼された縁で昭和36年、國洋電機工業に入社(この時サンエイ創業者と同期で入社)半導体黎明期、米国製LSI自動試験機の開発で昭和44年タケダ理研にスカウト移籍、創業者武田郁夫氏の熱意により米国出張後プロジェクトの技術者たちと若い情熱によって「世界一」のLSI試験装置の開発が目指す。昭和50年、石油危機による経済不況で富士通がタケダ理研に資本参加。昭和52年、速度100MHz、384ピン対応の超LSIテスタ完成。40MHzメモリーテスタと256ピンのロジック市場向けLSIテスタが米国で大ヒットし昭和60年、アドバンテスト(旧タケダ理研)は世界トップシャアを得る。現在に通ずるテスタのトップメーカーの礎は鎌田晨平先生の存在そのもの。「寝ずに仕事をするのは苦ではない」そのニューソート人生。80歳を超えて夏も冬も屋外の倉庫で排ガスの浄化装置の開発に熱中する姿(真の生涯現役)を最期まで見届けた私。真に尊敬に値する人でした。

こういった方々の他にも、サンエイを心から応援してくださり。今は霊界に旅立たれた方がいらっしゃいます。私はいつも感謝を忘れないことと同時に心の中でお誓い申し上げています。見守っていていただいている皆様に恥じない会社になりますと。サンエイの社員の皆さんも、そのことを忘れないようにしてください。

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