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群衆事故に想う

「明石花火大会歩道橋事故」は2001年7月21日に市民まつりの花火大会の帰路、歩道橋で6700人の群衆によって起こった圧死事故です。 

11人の死者の多くが子供でした怖く苦しかったことでしょう。昨日ソウルで150人が群集の中で圧死する事故がありました。

物質の豊かさと人間の心の豊かさは反比例するのでしょうか。時代が進んで豊かになったのになぜこのような事故が起きてしまうのでしょう。

神話を知らずに育つ日本人を心配して古事記の解説を書くと同時に近代の歴史も書いています。私たちは過去の歴史の上に存在して伝承する責任がある存在であり。虫のように湧いて生殖して死ぬわけにはいかないのです。

「しき嶋のやまとごころを人とはば朝日ににほふ山ざくら花」と本居宣長先生は詠みました。日本人は山桜の美しさが分かる心を持っているという意味です。日本に生まれたから日本人なのではなく。民族の歴史や生き方を知らなければ日本人にはなれないのです。

新渡戸稲造は120年前に武士道を書きました。ベルギーの法学者ド・ラブレー氏の私邸で日本の学校では宗教の授業なくしてどうやって道徳を教えるのだという質問の答えです。新渡戸稲造の妻のアメリカ人、旧名マリー(萬里子)へのメッセージでもあり英語で書いたのです。当の日本人である我々が今、翻訳して読んでいます。おかしな話です。

私は大東亜戦後の日本の教育が戦前の日本の行いを否定することから発していることに強烈な違和感を持っています。戦以前にあった多くの正しい道も否定して伝承されなかったことで日本の美徳は忘れらられ「足るを知る」心を失い誰もが「もっともっと欲しい」心を持ち、自由という名の分断の種を植え付けられました。

戦がなくてもすでに明治期に日本に来ていた外国人は欧米のもたらした文化によって日本の美徳である文化が滅びることを予言していました。以前にもあげた渡辺京二著「逝きし世の面影」を読んでください。明治人最強と私が言う日本人の美徳が残っていた明治が外国人の目線で語られています。新渡戸稲造が外国人に武士道を説いたように現代日本人に伝えられていないルーツを教えてくれます。

争いごとを好まない秩序ある子供を大切にした明治の人たちには「明石花火大会歩道橋圧死事故」などということが日本で起こったことが信じられないでしょう。なぜそうなったのか。明治文化が滅んだからです。滅びると言っても国がなくなるのではなく、多くの美徳は西洋を知ることで価値観が変わって日本らしさがなくなるということです。彼ら明治の外国人の予想した通りの展開になりました。

「逝きし世の面影」から外国人が見た日本を転載します。第4章 親和と礼節のほんの一部です。たくさんの項目のうちの一部の中の更に一文。全体は購入して読むことをお勧めします。

 明治20年初頭、伊勢参りの群衆を山田で見たパーマー氏(日本在住8年)「この人たちは実に日本の大きな魅力である・・・幸福で礼儀正しく穏やかであり、温和しい声でいつもニコニコしながらお喋りをし、ちょっとしたことからも健やかな喜びを吸収する恵まれた素質をもち何時間ともなくトボトボ歩いてもあちらこちら見物しても、決してへばらない羨ましい身体と脚を持っているなど点で、日本の群衆にひけを取らないものがあると公言できる国など何処にもあるまい」「群衆の中にいる日本の警官は何もすることなどない」と彼には思われた。「日本の庶民はなんと楽天的で心優しいのだろうか。なんと満足気に、身ぎれいにこの人たちは見えることだろう」

以降の写真はすべて「ニューヨーク公共図書館」Digital Collections 公開画像より転載

エドワード・シルヴェスター・モース
隅田川の川開きを見に行くと行きかう船で大混雑しているにもかかわらず「荒々しい言葉や叱責は一向聞こえず」ただ耳にするのは「アリガトウ」と「ゴメンナサイ」の声だけだった。彼は書く。「かくのごとき優雅と温厚の教訓、しかも船頭たちから、なぜ日本人が我々を南蛮夷狄(なんばんいてき)と呼び来たったかが、だんだんわかってくる」「下流に属する労働者たちの正直、節倹、精錬その他、我が国において「キリスト教徒的」と呼ばれるべき道徳のすべてに関しては、一冊の本に書くこともできる」と彼は思った、また彼は相撲の見物人が「完全に静かで秩序的」であり「演技が終わって見物人が続々と出てきたのを見ると押し合いへし合いするものもなければ、高声でしゃべる者もなく、またウイスキーを売る店に押し寄せる者もいない」とこれまた米国の場合と比べながら記述する「日本人はあまり酒を飲まぬ民族」であり「今日までの所はでは千鳥足の酔漢は一人も見ていない」彼は日本で暮らしていた間にたった一度しか往来で喧嘩を見なかったという。しかも彼にはその喧嘩のやり方がとても珍しいものに見えた。二人はただ髪の引っ張り合いをするだけだった。見物人はモースひとり。道ゆく者は嫌悪と恐怖の情を示して避けてゆく。例によって彼はアメリカの場合と比較する。これがアメリカなら「誰でも知っている通り、老幼が集まって環をなし、興奮した興味を持って格闘を見つめ、ぶんなぐれば感心し、喧嘩が終わるか巡査が干渉するかすれば、残念そうに四散する」というふうに。モースは日本に数か月以上いた外国人はおどろきと残念さをもって「自分の国で人道の名において道徳的教育の重荷になっている善徳や品性を生まれながらにして持っている」ここに気付くと述べ、それが「恵まれた階級の人々ばかりでなく、最も貧しい人々も持っている特質である」ことを強調する。

この本には、これらと異なる飲酒に関する習慣や事実もあることももちろん書かれてはいます。この後に続く記述には江戸時代には飲酒は習慣で武士の飲酒がもとでの悪徳も多くありましたが明治的禁欲生活に変化した数十年で飲酒に関する習慣が変わったようです。「火事と喧嘩は江戸の華」も喧嘩の中身を知ると相手を完膚なきまでにやっつけるようなものではなくコミュニケーションの一つのようにも思えます。とにかく明治日本人最強説の私の論拠の一つです。

 昭和の初期の記載になると東京に住んでいたキャサリンサンソムが電車に乗り込む際に我先に他人を押しのけて乗り込もうとする年配の女性のことを書います。
私は現代の初売りのデパートでの初売りの時の姿を想像しながら、やっぱり明治だなあと改めて思うのです。

引用を続けます、明治7年に来日したディアス・コバルビア
「日本人に関して一番興味深いことは、彼らが慎み深く、本質的に従順で秩序正しい民族であるということである。・・・・  その他多くの機会を通して横浜、神奈川といった人口6万から7万の都市で国民が喧嘩も酔っぱらいも何の混乱もなく、照明と花火と動物に変装した人々の怪奇な無言劇などを楽しむのを目撃する機会に恵まれた。どの祭り場でも通りで酔っ払いに会ったことがなかった」

明治12年グラント将軍に随行したJ・R・ヤング 上野での歓迎会当日の群衆について
「人だかりの中で目に付くものといえば、一般大衆の快活さとはしゃぎぶり、にこにこしている顔、娯楽好きな眼である。さらに気づいた点は、よく行き届いた完璧なまでの秩序と親切とやさしい感情である。・・・・群衆の快活さとがまん強さには終わりがないように思えた」 パーマーも明治22年の憲法発布祝賀行事の当日において同じような感想を抱いた。「群衆の振る舞いも日本独特で、見ていてとても楽しい。こんな時に喧嘩はつきもので必ず起こるのだが、東京の町々を今夜歩きまわっている夥しい群衆の実に我慢強く丁重で機嫌がよいことは日本以外には見られないと思われる」これらの記述を明治政府の強力な統制を示す資料として受け取りたい向きもあろう。しかし祭りの際の群衆の秩序については、ルドルフ・リンダウ(ドイツ人スイス通商調査派遣隊)の古い証言がある彼は文久元年に「長崎の守護神祭」を見物したが「静かで争いのない群衆であった」と書いている。

街には異常な活気がみなぎっていたが、同時に「完全なる秩序」が保たれていた。祭りの秩序は警察によって保たれているのではなかった。イザベラバードが明治11年に秋田土崎港の祭りを見て書いている「警察から聞いたところでは、港には2万2千人のよそものが来ているとのことだ、しかし、祭りを楽しんでいる3万2千人に対して、25人の警官の一隊で十分なのだそうだ。私は午後3時に立ち去るまで、酒に酔っているものは一人も見なかったし、乱暴な振る舞いや無礼な振る舞いを一例も見なかった。群衆に乱暴に押されることもまったくなかった。というのは人々がひどく込み合っているところでさえ、人々は自分から輪を作って、私に息のつける空間を残してくれたのである」

これも文中にあるように外国人観察者は日本人の庶民から見れば一種の貴人としての扱いであったとも取れます。しかしバードの言うように日本人の集団のみをみてもその中での日本人が「静かでおとなしく、彼ら自身の間でも押し合いもへし合いもすることはなかった」というのもまた事実です。

明治7年当時 東京外国語学校で教師をしていた革命家レフ・イリイッチ・メーチニコフ
「江戸でも一二を争う劇場は大勢の庶民ですし詰めで、女は胸をはだけて赤児に乳を飲ませ、男たちは下帯一本の裸というまことに「デモクラティック」な有様であるのに「そこには何の混乱も押し合いもなかった」彼はいう「この国ではどんなに貧しく疲れ切った人足でも、礼儀作法の決まりから外れることがけっしてない。・・・私は江戸の最も人口の密集した庶民的街区に二年間住んでいたにもかかわらず、口論しあっている日本人の姿をついぞ見かけたことがなかった。ましてや喧嘩などこの地でほとんど見かけぬ現象である。なんと日本語には罵りことばさえないのである。馬鹿と畜生ということばが、日本人相手に浴びせかける侮辱の極限なのだ」

ジョルジュ・イレール・ブスケ
「大川を横切っているくつかの木の橋の上から見下ろすと、船が上げ潮にのって帆を広げてゆっくり進んで来るのが見える。船頭すなわち水夫の組合は、労働者連中のなかで最も感心できないものの一つだそうだ。しかし今は粗野な様子も示さずに船を操り声を掛け合っている。罵倒することは下級階級でも極めてまれである。・・・本来の意味での喧嘩、口論、乱暴は決してない。我が国の意思が思想にしている群衆が常に見せているあの激しさや気忙しさを思わせるものは何もない」大川の花火の時でさえ、引け時の混雑を抜け出そうとする船々は「強くぶつかりあうことも粗野な言葉を交わすこともない」

引用は以上ですが、この本の中には「こどもの楽園」という章もあり、日本の子供が世界一幸せそうに見える。大人に大切にされてのびのび生きている様子が描かれています。「明石花火大会歩道橋圧死事故」での犠牲の大半は子供でした。いつから日本はこどもの楽園ではなくなってしまったのでしょうか。無邪気な子供も減ったのですが、何より無邪気で且つ子供を大切にする大人が減ったと思います。

日本人の特徴は邪気がないこと。これを無邪気と言いますが大人も子供も邪気が無かったことが外国人から見た日本人の姿として書かれています。逆説的に言えば現在人には邪気がありすぎる。無邪気ではいられない世の中になってしまったのでしょう。無邪気なおとぎの国の日本は滅んだのですが、物質文明に対抗する価値観を持つ日本の萌芽を個人的に期待します。「温故知新」過去を知って新たに踏み出す時期にきているのではないでしょうか日本は日本の価値観のままで良いのです。他の国の真似をすることはないのです。

子供や女性を大切にする。本当の平等とは、差別なくして区別ありの事。日本の子供を大切にする文化がなぜ廃れたのか。日本人として反省しなければならないと思います。先の戦で先人が守りたかったものは国家ということになっていますが、不可分一体の子や妻や親、地域が先にあったと思います。それが日本の美徳ではないでしょうか。 

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