言葉の力『言葉は神なりき』(お医者さんは気概を)

ブログに醜い写真を載せてすみません。公立福生病院で人工透析を中止して亡くなった女性(44歳)のことがあったので書きたかったのです。

上が私の『多発性嚢胞腎』の腎臓 下が普通の人の腎臓 ブドウのようにブクブク膨らんでます。3年前の画像なので今はもっと大きいです。年10%位大きくなっていきます。大きくなると共に腎機能が低下し先日の検査で糸球体濾過量(eGFR)という数字が30%を切ったので、重い腎不全のほうに入ってきました。これは、母系統からもらった遺伝なのでどうしようもないですが、生活習慣による糖尿などで腎機能が低下しているかたは、改善の余地があるのですから頑張って透析にならないようにしてください。

人工透析は『血管に針刺して寝てれば良い』というような気楽なものではありません。毎月大学病院で先生と話しますが、人工透析を悲観し自殺してしまう人も何人もいるそうです。

週3回(1回3~4時間)受けないと尿毒症で死亡率100%です。自己負担は極わずかですが、国の負担は一人年400万円とも500万円ともいわれている大社会問題です。しかも年1万人ずつ患者が増えている。その割には理解が少ない議論も少ない、タブー化されているのでしょうか。

まず『シャント』のこと。透析は今日からはじめるというわけには行きません。透析をするには普通の血管では血流量が少ないのでそれを多くするするために腕の血管で静脈と動脈を繋いでしまいます。そうすると動脈から直接静脈に返るラインができるので血流量が増えます。(血の流れる音が聞こえるほど)これをシャントというのですが、20%から30%の人が1年以内にシャントが使えなくなる(壊れる確率があるそうです)その場合、もう片方の腕や他の場所に作ったり、人工血管を使ったりするのです。また見た目が悪いです。血管が1cmくらい浮くこともあり特に女性には厳しい現実です。(母もこれを嫌がっていました)私が読んだ範囲では亡くなった女性は両手のシャントが駄目になって、いつも通っていたクリニックではシャントが作れないので福生病院にいって透析をしないことを選んだ。ということでした。(間違っていたらすみません)

さてここからが本題です。私もいずれ透析になります。母より進行が早いです。心臓も難病です。透析を始めると心臓が悪くなる人も多いようですが私の場合は元々です。病院ににいって結果を聞くと、ひどく落ち込みます。先のことを考えると何も手につきません。全く希望も沸きません。私を支えているのは、娘と会社を何とか独り立ちさせなければと思うだけです。だからそこまで、『あと10年くらい透析しないで済むようにして下さい』と先生にお願いすると『そこまでは無理だなあ』と笑顔で返されます。心臓の結果でも、腎臓の結果でも、検査のたびに鬱になりそうです。

新約聖書(ヨハネ第一章第一節)「初めに言(コトバ)ありき、言(コトバ)は神とともにあり、言(コトバ)は神なりき」とあります。特に権威のある人(病院で白衣を着ている人)は自覚していただきたい。あなた方は『言葉で人を殺すことも出来る』また逆に『言葉で人を生かすことも出来る』私の母も、透析を受ける前(シャントを作る前)は 透析をやるくらいなら死んでも良いといっていましたが、今の先生(私の主治医でもあります)に変わってから、『先生が言われるなら受けます』 になりました。 患者さんは1000人いれば1000人とも違います。心の弱い人といっても種類がたくさんあります。流されやすい人、恐怖を人より強く感じる人、同情されたい気持ちの強い人、日を変えて冷静に話せば理解できる人、一人では決断させてはいけない人、心が揺れ動いている最中の人。その1000人に個別に対応する義務が権威のある人にはあるのです。『自分だって人間だから、そんなの無理』という人は医者を辞めましょう。向いていません。出来なくたってやる気概がなくては駄目です。前々回のテーマは『神は愛なり』でした。神の力を特に強く持っている責任が医師にはあります。さて福生の言葉の神に神の愛はあったのでしょうか。

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