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社長ブログ

藤井一中尉のこと(4)

2020年05月28日

今日、5月28日は藤井一中尉の御命日です。75年が経った今では「天国で家族に再開した日」と言いましょうか。今年は春の彼岸に中尉と御一家の墓参を果たせました。まさか新型コロナの影響がここまで大きくなるとは思いませんでしたが、日本は英霊に守られているということを私は信じています。一人でも多くの人に知ってもらいたいと思います。後の日本のことを頼んだぞと言い残して散華された人たちのことを。

 

事はそんなに単純ではありません。特攻隊の真実を知っている人はごくわずか、私も知っているなどとは恥ずかしくて言えませんが、少なくとも私の知る限りでは悲惨な話です。美談として語られる多くは特攻に行かせた側の伝えた話が元になっており、行かされた側の話は理不尽極まりない体験ものが多いです。

 

まともに飛べない(飛行経験の乏しい)少年兵にまともに飛ぶことができない機(特攻の行われた戦争末期はまともな飛行機が少なかった)をあてがい「とにかく死んで来い」という。少年は純粋な気持ちから乗せられて死に逝く、学徒出身者は理不尽と知りながら逝く、消耗品の扱い。

急角度で船に当たることの難しさ(大変な技術だが殆ど初心者しかいないという現実)堅い船に軽い飛行機が当たるダメージの少なさ、空母を沈めるのは無理。駆逐艦や輸送船がターゲット、英米の技術によりVT信管つきの砲弾が開発される。当たらなくても飛行機の近くで砲弾が破裂してダメージを受ける。船までたどり着けない。そんなことをわかっていてとにかく死に行かせる。

 

藤井中尉は耐えられなかった。妻子がありながら、教官の身でありながら志願する。当然不受理。何度志願しても不受理。それを知った妻と毎夜の口論。ついに妻は娘を連れ心中してしまう。後顧の憂いなく夫が逝けるように。

 

報道統制で、この話は伏せられた。陸軍も中尉の志願を受け入れた。昭和20年5月28日、操縦士ではない中尉に与えられたのは、二式複座戦闘機「屠龍」通信士として小川彰少尉とともに知覧より出撃

5月28日朝7時頃、2機の特攻機がドレクスラーとロウリーに突入。1機目は戦闘哨戒任務に当った機の攻撃で撃墜。2機目は突入に失敗しロウリーとドレクスラーの間に墜落するかに見えたが機は次の瞬間にドレクスラーの真正面方向から突入、艦後部の蒸気パイプを破壊した。

 

ドレクスラーは動力が全停止し、ガソリンによる大きな火災が発生するも砲撃を続け、特攻機3機を撃墜するが艦内の乗員は閉じ込められ、外に出ていた何名かの乗員は衝撃で海中に放り出された。

つづけて別の特攻機が炎上するドレクスラーの上部構造物に突入。ドレクスラーは2機目の突入後、1分に満たない時間で船尾より沈没。乗員158名死亡52名が負傷。突入した特攻機が双発機であったとの生存者の証言あり(ドレクスラー生存者レユニオン協会とのことだがソースが見つからない) この機は「第45振武隊」二式複座戦闘機「屠龍」と見られている。

 

当日の特攻に参加した隊は別表の通り。私は英霊の皆さん力を合わせて戦った結果だと思いますし、藤井中尉も武勲をたて、お土産として家族に持って逝ったと信じます。

私が毎日通勤で通る道は、昭和19年12月14日、藤井中尉の妻、フクさん・千恵子ちゃん・一子ちゃんが横切った国道140号線、この辺りを横切ったのか、下宿先から直線で2里(8km)冬至の近い赤城おろしの吹きすさぶ暗い夜道を子供連れで何時間かけて歩いたのかと思わぬ日はありません。翌年5月28日、家族みんなが逢えたのでしょう。藤井中尉が約束通り手柄をもって。

 

米の死者も158名、全員にかけがえのない家族がいたはず。それが戦争、2度と繰り返してはなりません。藤井中尉が言っています。「後の日本のことを頼んだぞ」と。戦争に命を懸けられない日本人、屈するしかないのが現状。日支事変では自重を重ね蜂起せざるを得なくなった。政府は今、遺憾という間違ったメッセージを発しつづけています。戦後75年、実は既に戦時序盤です。後を託された我々が国の防衛を真剣に考えるべき時。政治家よ、「任を放棄するな。国難から目を逸らすな。」という気持ちの一日でした。

 

 

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