見出し画像

藤井中尉のこと。 南九州市知覧町

 鹿児島に1泊出張に来ました。少々遠回りですが、鹿児島に来たときは、知覧の特攻平和会館に来ることにしています。

「知らないことは恥ずかしい」というタイトルのブログにも書きましたが、今ではここに来なければならないという気持ちで来ています。

 特攻を賛美する人がいますが、発案者が申しておりますように悲惨中の悲惨な必死の作戦の外道です。

 私はこれを推奨賛美するものではありませんが、知らないご縁があったのです。熊谷で育ち、荒川で遊んできました。大人になってからも、子供を連れて河原でバーベキューや水遊びをしました。

 そんな中で、藤井一中尉のことを知ります。藤井中尉のことはたくさんの書き込みがありますのでwebで調べてみてください。何も知らないで荒川で戯れていた自分が恥ずかしくなりました。そんなこともあって、今では藤井中尉が教官をしていた航空自衛隊のある、熊谷市拾六間に自ら望んで住んでいます。

 そして、鹿児島に来る時には(実は鹿児島にはお客さんはいません)知覧に藤井中尉に線香をあげさせていただきに来ます。館内撮影禁止ですので上の2枚はパンフレットです。藤井中尉は昭和20年5月28日、第45振武隊として出撃し、見事作戦は成功したということです。(享年29歳) 平和会館では8コーナーに遺影があります。(一番上の段です)

 例の有名な子供たちが亡くなた後 一子ちゃん 千恵子ちゃんに宛てた手紙も展示されています。 コピーなのでしょうが、お花の絵、女の子の絵の筆圧まで伝わってくる、今そこで描いたかのようなお手紙は、藤井中尉の子供への気持ち、人柄が伝わってきてネットで見るものと全く違います。 少々遠いですが、是非一度ご覧ください。知覧特攻平和会館 初代館長  故 板津 忠正さんのためにもお願いします。

 平和会館の外観と、お線香をあげられるお堂です。観音堂もありますし護国神社でもあるので、何でも良いからとにかく慰霊顕彰したいという残った人々の気持ちが伝わってきます。

 これも有名な「とこしえに」の若鷲の像と見つめる母の像、若鷲の像が昭和49年、母の像が昭和61年ですから若鷲一人では可哀そうということもあってお母さんに来てもらったのでしょうか双方の石板には「母の温かいみ胸で御霊の安らかならんとして世界平和を祈念して」「国を思い、父母を思い、永遠の平和を願いがら、勇士は征ったに違いありません」とあります。

 特攻隊員は10代後半から20代初めの若者が多かったので、騙されてとか、断れずに嫌々行ったという人もいます、そういう人がいたことも否定しません、しかし多くの若者は自分の命を捨てることで将来の日本人に託し、示したのだと思います。敗戦で自決した人、特攻で命をささげた人の多くが、「後のことは頼んだぞ」と言って逝きます。 頼まれたのは誰ですか。 今を生きる私たちも入っているのではないですか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?