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在宅日記 第17回 月初め

月初めは神棚の清掃と榊や お供えを替えます。水は毎日替え参拝しますが、榊は月2回、米酒塩は月1回、水は毎日ということにしています。神棚が3ヵ所なので毎日は厳しいです。

在宅で留守部隊に水替えをお願いしておきましたが、水が涸(か)れていました。榊にしても水にしても枯れるのはよくありません。(気枯)ケガレに繋がるからです。

現 寄居本社の、お隣は八幡大神社(応神天皇・神功皇后) お参りのあと神棚の清掃と、お手入れをいたしました。
今年は春季例大祭も内々で行われ、神事でさえも新型コロナ禍の影響を受ける。まさに戦時という感じですね。

案外こういうリスクがあるということを、ビルゲイツはじめ口にする人は多かったのですが、だれも準備していない(一般人は特に)ことで非常の大きい影響を受けました。教訓として同じような疫病が起こったとしても社会生活が維持できるようにしておかなければなりません。少々脱線しますが、韓国が戦時下である(停戦中ではあるが今だ戦争中だということ)ことが、対応が早く、終息も早かったということは事実だと思います。

次に行田工場に向かいました。車で一時間の距離です。

新規採用のメンバーの中には訪れたことがない人がいるかもしれません。

工場の お向いは河原神社 お参りのあと同じく神棚の清掃をいたしました。ここは、水替えをしてくれる社員が常駐していないので、榊はお供えしていません。造化は意味がないと思うのです。形ではなく そこに生命がないといけないので。

自宅でも本社と同じ手順ですが神棚が先、氏神様である大雷神社の お参りは最後になってしまいます。
どの氏神様も今日は参拝の人を見かけましたが、少ないですね。風習でやっているというか、むしろこちらが生活の中心(柱)ではないかと思うのですが、そう考えている人はもはや少数なのでしょう。

クリスマスやハロウィンと初詣が同じイベントと考えられているように。元を知らないのですから信仰心など 起る訳がありあません。しかしそれでは動物と一緒です。日本人として自分の元がどこにあるのか。外国でも他教でもいいのですが、元を知らないと根無し草になってしまうのです。

畏敬の念がない人が多いです。自他双方に畏敬の念がないということ。自分の存在も小さく考えすぎている人が多いです。

神仏と心が離れている人が多い。同様に仏壇や墓参り。行動しなくてもいいので祖先を想う。先祖に心を寄せるという習慣がなくなっていますね。そうであれば当然そういった祖先や先人に対する感謝の念も起こりません。どちらが先かはわかりませんが、元を知って感謝する。感謝することから元を知る。

どちらにしろ知らねばなりません。

知識としての勉強より、そちらの方が大切です。知っていくとだんだんいろいろなことが繋がっていることに気づくはずです。腑に落ちる(なるほどな)と思うはずです。

目にみえないことの中に本当のことがある。我々は守られている。「あれは社長が勝手にやっていることだ」と視ている者がいるとすると私は非常に残念です。最後にもう一度言いますが、そちらの方が仕事や個人の生活より元にあるということ。

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