敗戦の誤謬

昭和39年生まれは戦後19年だったと思うと戦争の記憶がまだ強く残っていたのでしょう。受けた教育も戦争の反省ということもあったのでしょうか過剰な反戦教育だったと思います。ここに書けないようなとても残忍な日本人の行為の数々を授業で教師が語っていました。私の亡祖父は出征した満州での思い出をいつも楽しそうに話していたのでそのギャップに違和感を覚えたものです。当時は学校教育のほうを信じていました。そんな人は多いのだと思います。そんな逆洗脳状態から今の若い人は脱しつつあるとのことですから喜ばしいことではありますが日本が国力を落としている現代、知識が正しくても肝心の個人の幸福が置き去りになるのは残念です。日本としての誇りを取り戻すと同時に日本の未来についても明るいものにしなければなりません。日本が繁栄してはいけないと思うような教育を私たちは受けてきました。国力や軍事力が増すとまた侵略を始めるなんて思わされてきたのです。そんな誤謬がなぜ生まれたのか私なりに記したいと思います。例によって長文ですがファクトチェックは各自でよろしくお願いします。いずれ大東亜戦争は近代史のテーマとして別途取り上げます。

第一に日本の戦争の終わらせ方東京裁判と戦争犯罪についてについて(松井石根)
第二に終戦の詔書から昭和天皇の御心について

 ・日本の戦争の終わらせ方
先の戦争は日本では大東亜戦争と呼ばれていました。戦後この呼び方は占領政府によって禁じられ太平洋戦争となっています。占領が解かれ自主権を得ても日本では太平洋戦争と呼んでいます。靖国の英霊は太平洋戦争って何?と思っているでしょう。それで私は大東亜戦争というようにしています。世界的にはアジアでアメリカと日本が戦争していただけではありません。第2次世界大戦だったのです。第2次ということは1次があったわけです。1914年-1918年 ドイツ帝国・オーストリア・ブルガリア・オスマン帝国(同盟国)×イギリス・フランス・ロシア帝国・日本・アメリカ・セルビア・モンテネグロ・ルーマニア・中華民国・イタリア(連合国)のヨーロッパでの戦争ですが日英同盟が機能していましたから連合国の日本が先勝側になったのです。戦後処理でドイツが太平洋方面にもっていた島々を委任統治することになってChinaでもドイツの権益を継承してしまうのです。第2次大戦は1939年9月にイギリスとドイツの間で始まり1941年6月にはソ連とドイツ12月にドイツの同盟国になっていた日本が真珠湾を攻撃することになるわけです。開戦の事情が全く違うのですが日独伊対連合国という負け組に入ってしまいます。この辺の理由も学問になっているくらい諸説ありますが1921年に日英同盟を破棄せざるを得ない状況になったことは後の歴史に大きな影響があったでしょう。第2次世界大戦の終わり方については連合国対ドイツ・連合国対日本で大きく異なります。1945年の5月にはドイツはすでに降伏していました。またドイツはナチスという一政党が戦争を起こしたことになっています。ナチスはホロコーストという名の人種差別大量虐殺(600万人説あり)という人権蹂躙問題をおこしていました。このドイツと日本の戦後処理に共通点、相違点があります。ドイツは4月にヒトラーが自殺して5月7日連合国に無条件降伏しました。

日本は8月15日が終戦の日とされていますがポツダム宣言という降伏条件が米・英・Chinaから示されたのが7月26日、8月8日にソ連が後追いで提示国に乗ってきます。この受託を決定通知したのは8月14日、調印したのが9月2日です。8月15日は天皇陛下がポツダム宣言を受託することを国民に放送で知らせた日ですね。1963年に「終戦の日」が1982年に「終戦記念日」が閣議決定されて追悼式などが行われているということです。

さて、本題はドイツと日本の敗戦処理についてです。この2つの国を同じ内容で制裁できなかったのです。制裁と書きましたが連合国にとってはあくまで戦後処理ですが受けた側にとっては実質的には制裁ですね。負ければこうなります。恐らく現在進行形のロシアとウクライナもどちらかが勝つか負けるかで受ける戦後処理は全く違うことになるでしょう。国際社会はそれに異論は唱えるかもしれませんが手出しはしないでしょう。それが現実です。

英首相ウィンストン・チャーチルは戦犯処罰を連合国の戦争目的に位置付けます。1941年12月の大西洋憲章はナチスの破壊を目的とするものです。

ドイツ日本とも戦勝国は国家の改造をしようとします。 

ナチス指導者を裁くニュルンベルク裁判(左)
日本の戦争指導者を裁く東京裁判(極東国際軍事裁判)(右)

ここで今までの戦争犯罪と違うカテゴリーが必要になるわけです。禁じ手の法の遡及です。(後から罪を作る)
何故かというとナチスが行った大量虐殺を裁く罪名がなかったので戦争犯罪にカテゴリーを作りました。
カテゴリーBは「戦争犯罪」(従来からある戦争法違反)
カテゴリーCは「人道に対する罪」(ナチス大量虐殺処罰用の新しい概念(残虐行為処罰))
カテゴリーAは「平和に対する罪」(侵略戦争再発防止用の新しい概念)
これらはアメリカ陸軍省が主導し先に裁判になったドイツ用の概念が東京裁判にも流用されました。
ニュルンベルクの裁判所が国際合意であるロンドン協定により設置されたのに対し東京裁判はマッカーサー連合国最高司令官が裁判所を設置ということになっています。いちアメリカ人がなんでそんな権限があったのでしょうか。私怨ですか。まあマッカーサーの言うことを日本人はよく聞くわけです。鬼畜米英とか言っておきながらコロッと変わってしまう。現代日本人に通じるものがありますね。

従来の戦争犯罪は世界中40カ国以上で裁かれました。死刑になった日本人(朝鮮人・台湾人を含む)英霊は1000人以上です。彼らが言いたかったことは「BC級戦犯60年目の遺書」を読みましょう。よくわかります。いっさい夢にござ候 - 本間雅晴中将伝」も読みましょう。マッカーサーにI shall returnと言わせた男です。「一粒の麦 提督 醍醐忠重の最後」(海軍中将)も良いですね。皆武人にふさわしい最期でした。

東京裁判では28人が起訴されて7人が死刑になりました。11人の戦勝国判事のうちインドのラダ・ビノード・パール判事のみが不戦条約は防衛戦争までは禁止していないこと。防衛戦争は各国の概念があり満州等の占領地の維持目的である日本の軍事行動も防衛戦争ではないとは言えないと主張しましたが判決は覆りませんでした。 

7名の死刑囚のうち廣󠄁田弘毅は外務官僚でしたが日本の武人は立派に刑を受け入れました。言いたいことはたくさんあったと思います。刑が執行された1948年12月23日は当時の皇太子殿下、今の上皇陛下の誕生日、陰険だと思いませんか。A組7人(東条英機・廣田弘毅・土肥原賢二・板垣征四郎・木村兵太郎・松井石根・武藤章)のうち廣田弘毅は政治家、それ以外の6名は陸軍軍人です。武藤章だけが中将であり運不運もあるのかと思います。

【日本には戦犯はいない】(当時の国民の総意)
当時の日本人の立派なところは矛盾や理不尽を改めたところです。連合国の占領下から脱した昭和27年5月1日に法務総裁が東京裁判での戦犯は「平和条約発効と共に撤回されたものとする」という主権回復した国家としての通達を出し、翌昭和28年8月3日「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が上程され、旧社会党・共産党を含む全会一致で可決(共産党は当時会派がなかったとして現在は否定)して全ての戦争犯罪人というものは正式に存在しないものとなりました。その時国民の赦免署名は四千万集まったとか眞に日本人の総意といえます。
国会では、この28年以外でも
昭和27年6月9日、参議院本会議「戦犯在所者の釈放等に関する決議」、
昭和27年12月9日、衆議院本会議「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」
昭和30年7月19日、衆議院本会議「戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議」
をしているのが事実です。戦争犯罪に関しては清算済み。全員「戦争による公務死」で罪人じゃありません。
今年もまた特定のお隣さんからクレームが来ているようですが日本人なら正しく反論しましょう。
「国内で解決済みなので内政干渉はやめてください」と。

巣鴨プリズン  現サンシャインシティ

さてA組7人ですが同じ日に処刑されたのが7人で松井石根大将だけはB組扱いです。(A組で無罪)
松井石根大将についてはもっと先で書くつもりでしたが思い入れがあるのでここに記します。
松井石根は昭和10年に予備役になっています。現役終了者、ご隠居です。(乃木希典も予備役でした)
China側でいう南京大虐殺という事件の責任を取ったのです。Chinaをとても大切に思っていた人だったのに。
知らないというのは愚かなことです。外人にはわからなかったのでしょう。この大将の人となりを。
松井将軍はChinaを愛し日支友好こそがアジア安定の要であるという確固な思いを持っていました。日支関係が悪化の一方をたどったため59歳で上海攻略戦の総司令官として召集されてしまいます。

中華民国の父 孫文と蒋介石 中華民国とは台湾

中国革命の父「孫文」の大亜細亜主義に強く共鳴してChina駐在武官に志願したほどChinaを愛していました。蒋介石とも親交があって蒋が日本で暮らした際には生活の支援をするなどの人物がまことに因縁的なことに蒋が誇大喧伝した「南京大虐殺なるもの」により処刑されてしまう。蒋介石は後に「松井閣下にはまことに申訳ないことを致しました」と回述したという話も真偽はわかりませんが残っています。

Chinaを愛し孫文の革命を助け留学生当時から面倒を見た松井石根、巣鴨プリズン(現サンシャインにあった処刑所)収監前の言葉「乃公(自分)はどうせ殺されるだろうが、願わくば興亜の礎、人柱として逝きたい。かりそめにも親愛なる中国人を虐殺云々ではなんとしても浮かばれないなぁ」と語ったとか。

この言葉、私には100人切りの汚名を着せられ処刑された向井少尉の辞世と重なります。以下に記します。
「我は天地神明に誓い捕虜住民を殺害せる事全然なし。・・・我が死を以て中国抗戦八年の苦杯の遺恨流れ去り日華親善、東洋平和の因ともなれば捨石となり幸ひです。中国の御奮闘を祈る日本の敢奮を祈る、中国万歳、日本万歳 天皇陛下万歳 死して護国の鬼となります」どうですか。たとえ自分に罪はなくとも自分の死をもって日本とChinaの友好の礎になるなら本望と言っているのです。立派ですね。B組の遺書にも同様の言葉はたくさん出てきます。是非読んでください。

興亜観音について書きます。
静岡県熱海市の伊豆山中腹に「興亜観音」は立っています。昭和15年(1940年)帰国後の松井は傷病兵の慰問や全国の護国神社の参拝など退役軍人として英霊の冥福を祈り遺族とかかわるなど慰霊に努めました。やがて東京の官舎を引き払い伊豆山に転居、興亜観音を建立し日本、支那両国の戦死者を弔います。観音堂への参詣と朝夕の観音経の奉唱を欠かさず全国の傷病兵の見舞いに努める一方、支那各地の戦跡 を巡るとともに亜細亜の独立のために奔走しました。松井将軍の尊敬した乃木希典大将も時代は異なりますが日露戦争旅順要塞攻撃で亡くなったロシア軍兵士慰霊のため追悼碑の除幕式に参加するなど慰霊に努めていたそうです。

松井将軍は畑軍司令官にお願いしChinaから運んだ土で陶工柴山清風氏に一次焼成、彫塑家小倉右一郎氏に原型の修正を依頼。常滑の杉江製陶所にて仕上げの焼成を行って製作されました。

【興亜観音開眼式後の松井石根インタビュー】(主婦の友)
「部下の英霊と共に住みたい。それが、私の永い間の願ひであった。今ここに幾多同感の人士、併に熱海市各方面の協力によりて興亜観音の完成を見、開眼式を行ひ、日夜諸君の霊を慰め得ることを、私は衷心(ちゅうしん)から歓ばしく思ふのである。大命を拝して江南の野に轉戦(てんせん)し私は敵味方幾多の将兵の貴い生命を滅ぼした。南京入城の翌日、戦没将兵の慰霊祭を行つたのであるが、その時、私の脳裏に浮かんだのは、皇軍将士の忠勇義烈の様と共に、蒋政権の傀儡(かいらい)となつて、徒らに生命を捨てた、哀れな支那人の犠牲者のことであつた。 皇軍の将兵は、その最後において一様に、陛下の萬歳を唱へまつり、莞爾(かんじ)として皇国のために殉じたのである。この姿は、成佛の姿でなくして何であらう。また、靖国神社に神として斎(いつ)き祀られ、萬人の景仰のもとに永遠に神鎮まり給ふのである。
ひきかへて支那の犠牲者達は、その多くが、些末(さまつ)の囘向(えこう)をも受けることなくして、空しく屍を荒野にさらしている。その亡魂は成佛することができずして、大陸にさまようていることであらう。この哀れな犠牲者を、皇軍将士と共々供養してやりたいといふ願ひは、私の心深く根ざすところがあった。命により、數多の部下を残して帰還するに當つて、私は人に託して部下の遺骨と、日中両国将兵が戦没の地の霊土をもって佛像を作り、両国の戦没将兵を平等に祀ることにした。すでに靖国神社に神として祀られ、皇国の英霊を、私してお祀りすることは、まことに僭越であつた。しかし私個人として、私の部下であつた多くの勇士に對する感謝と愛惜(あいせき)の情はまことに禁じ難く、僭越ながらかうして英霊を祀り、これを一般に公開することにしたのである。両国殉難者を祀るためには、相通じる佛教もつてすべきだと思つた。そして各宗派に超越している観世音を祀り、その大慈大悲の念力によって數多の亡魂を救ひ、普く三千大千世界を照らす観音の光明をもって、業障を浄除して、両国犠牲者の霊が、地下に融和せんことを願つたのである。更に、我が身を殺して大慈を布き、畏(おそ)れなきを施すといふ施無畏(せむい)の観音の精神は、即ち八紘一宇の興亜大業の精神に他ならぬ。
諸人と共に、両国犠牲者の冥福を怨親平等に囘向(えこう)し、八紘一宇の大精神を具現する、日支親善の守り本尊となるならば望外の幸福である。私が興亜観音の建立を発願したのは、この目的に他ならなかつた。携えて来た霊土は、陶土に混へて、上餘(じょうよ)の外佛と二尺餘の内佛の二體作つて興亜観音となし、部下勇士達の遺骨は、寶蓮華臺(ほうれんげだい)の中にねんごろに納めた。この伊豆山の麓に居を移した私は、朝夕(ちょうせき)の閼伽(あか)の水を奉るべく、杖を引いて山路を登り下りする。 観音像の御前に合掌して、想ひを蒼海萬里(そうかいばんり)の外に馳(はせ)するとき、うたた感慨切なきものなきを得ない。諸君と共に死すべかりし身の、命により帰還して後、私の眼前に見んとして見得ず、しかも脳裏を巡って離れぬものは、諸君が戦場において、敢然敵陣に突入せんとする忠勇義烈の姿であった。いま諸君のこの姿を、興亜観音の御像の上に仰ふ。私はこの観音堂にあつて、身の餘生を、諸君の霊を守つて明し暮らしたいと思ふ。しかしながら、諸君の莫大の命を捧げし、興亜の聖業未だ成らざるのとき、徒らに身を閑居の安きに処しているべきではない。言うまでもなく地位の如何を問わず、なほまた何かと邦家(ほうか)のため微力をいたすの義務ありと信じている。 聖業の成れる暁にこそ、私は興亜観音像の堂主として、諸君の霊に仕えへて餘生を終わりたいと思ふ。」
立派です。でも死刑でした。

【伊豆の生活を支えた女中の杉江清子さんによる松井大将の日課】
「まず朝起きると、家にいらっしゃるときは興亜観音さまのところへ。ユリコという犬がいてね、(松井大将と)ユリコと私と3人で行くんだがね。私は旦那様の背中を押してさしあげて、そしたら旦那様も一生懸命に山道を上がって。南京陥落で亡くなった部下たちのことをすっごく可哀想に思って、南京の土を持ってきて観音さまを造って、そういう戦死した人の供養をなさっていた。だから毎日観音さまのところへ行っていた。季節を問わず毎日です。雨が降っても私が傘をさして旦那様の背中を押して行っていた。そして合掌し、じーっと10分か15分ぐらいかなあ、毎日供養をなさっていたんです」「私は、どうしてそんなね、旦那様が悪いわけじゃないのにね、なんで戦犯にならなければいけないんだろうと思ってね。なんであんないい旦那様がそんなことしないといけないんだろうかと思って、泣けてしかたがなかった。絶対に旦那様はあの世でいいところに行ってると思う。極楽へ行ってると思う。そんなね、悪い人じゃないもん。いまでも会えたら会いたいわ。本当にかわいがって下さった。親よりかわいがってくれた。だから、会えたらいまでも会いたい。優しい言葉をかけてあげたい。是非、旦那様のそういう濡れ衣を晴らしてあげてください」
人格者です。でも死刑です。

皇軍は明治が最強。連合軍としての亜細亜最初の軍隊、元々の明治人の気質に綱紀粛正が行き届いた最高の軍隊。大正昭和となるとモラルの低下もあったようです。日本人の劣化が明治から見ればあったのだと思います。明治の軍人だった松井大将が予備役から上海攻略戦の総司令官として召された時59歳です。綱紀粛正に関しては明治の軍人らしく大変拘ったのですが相手は大正昭和生まれの若い兵。松井大将はどう見られていて下士官はどう従ったのか。ともかく松井大将の南京入場に際しての指示をみてみましょう。

松井石根大将 南京入城

〈捕虜の虐待や民間人に被害を与えないよう上海と南京の攻略戦において松井将軍が何度も「戦時国際法」に基づいて軍紀を守るよう念を押しています。軍紀に厳しい理想肌の松井中将の下にいたのは大正昭和世代の下士官でした。南京事件はゼネレーションギャップが戦場で引き起こされた悲劇といえるかもしれません。〉

〈松井は南京攻略を前に「南京錠攻略要領」〈略奪行為・不法行為を厳罰に処すなど厳しい軍紀を含む〉を兵士に示した。日本軍は「降伏勧告文」を南京の街に飛行機で撒布した。翌日、降伏勧告に対する回答はなく、南京総攻撃が始まり、南京陥落。松井が南京入城。このとき、松井は一部の兵士によって掠奪(りゃくだつ)行為が発生したと事件の報を聞き、「皇軍の名に拭いようのない汚点をつけた」と嘆いたという。松井は軍紀の粛正を改めて命じ、合わせて中国人への軽侮(けいぶ)の思想を念を押すようにして戒めた。〉

〈翌日慰霊祭の前に、各師団の参謀長らを前に、松井は彼らに強い調子で訓示を与えた。松井は「軍紀ヲ緊粛スヘキコト」「支那人ヲ馬鹿ニセヌコト」「英米等ノ外国ニハ強ク正シク、支那ニハ軟ク以テ英米依存ヲ放棄セシム」などと語ったという。松井は軍紀の粛正を改めて命じ、合わせて中国人への軽侮の思想を念を押すようにして戒めたそうです。〉

〈南京に向かう途中での話。松井大将が南京戦に向かう途中 日本軍の戦死体は埋葬されて、戦場清掃を済ませていました。それを見た松井大将は、二人の参謀を呼びつけ 日本兵の死体だけを片付け支那兵の戦死体を放置したままにするとは何ごとかと叱りつけたそうです。〉

日露戦争後、蒋介石を援助してChina統一させたかった松井石根。関東軍(中華民国から租借した地域の日本陸軍守備隊)は逆に済南事件(1928年)をきっかけに蒋介石と敵対します。それでも1933年に「大亜細亜協会」を設立し欧米列強に支配されるアジアからの脱却のためChinaと協力しようとします。1934年に現役を退いて予備役になります。ここからの再登場となるのですから松井大将がいかにChinaを尊敬し敬愛していたかわかるでしょう。松井大将は親Chinaとして再度、世界の見る目を気にした陸軍から徴用され司令官としてChinaの地を踏みます。にもかかわらず逆に南京入城後にChinaに対して弱腰とみられ更迭されたのです。帰国後、日支双方の犠牲者の慰霊の日々を送りながらA組戦争犯罪で訴追されますがA組は無罪だけれどB組で死刑となったわけです。Chinaの言う南京大虐殺があったのなら仕方ないかもしれません。でも通常の戦闘の延長だったら。否、戦争に負けていなかったら結果は違っていたでしょう。なんという皮肉な結果でしょうか、他の軍人同様、松井将軍は死刑を肯定的に受け入れたでしょう。ただし、Chinaに対する気持ちを理解されないとしたら無念でしょう。同じ死でも無念でしょう。私たちはその無念な気持ちを汲んで日支双方の犠牲に対して悼まなければならないのではないでしょうか。

今日は送り盆、神道の家系であってもその御霊は各家でくつろいで帰るのでしょう。思い入れが強すぎて松井石根大将の文章が長くなってしまいました。なぜかと言えば悔しいから。日本人があまりにも関心を持たない。反日義務教育の中で私もA級戦犯は一番悪い人のような刷り込みにあって、この問題は日本人として触れてはいけない恥ずかしい問題だと思いこまされていました。だから戦争犯罪人として刑を負った一人一人にドラマがあって言い分はあったはずですが戦勝国が敗戦国を一方的に裁くことができたこの裁判の判決を当時受託はしたのは確かですが今振り返って正しかったかの検証はなされるべきでしょう。Chinaを愛した松井石根大将はChinaが建設した南京記念館で堂々と罪悪人として展示され「日本のヒトラー」とさえ呼ばれているそうです。私はそのことが悔しい。本人が一番無念でしょうけれど日本人が一人でも知るきっかけになってほしいという思いです。

A組七人のための殉国七士廟
(じゅんこくしちしびょう)の話をしましょう。
ニュンベルク裁判でC組により死刑執行になった11名の遺骨は埋葬されることを許されず。川に流されます。このことからも報復的な目的があることが分かります。

日本にはC組「人道に対する罪」で起訴された人はいません。きっと原子爆弾を落とした人を裁判にかければC組になるでしょう。日本人も公式にはA組戦争犯罪者の遺骨は太平洋に撒かれたことになっています。遺骨の遺族への引渡しはマッカーサーが許しませんでした。

武人が望む死に方といえば切腹。フィリピンで死刑になった本間雅晴中将は銃殺。「さあ来い」が最後の言葉。望まない死に方は絞首刑。A組7人は昭和23年12月23日午前零時に13階段を上ります。処刑後横浜の久保山火葬場で焼いた後、米兵が骨を混ぜ合わせて一つにします。尊厳なんて死んでも与えられません。占領軍は遺骨を太平洋に捨てたと発表。日本人の手のひら返しで「戦争初めて悪いことをしたA級戦犯」という悪いイメージを刷り込み。それに乗る人もいます。多くの日本人はこの粗末な扱いには怒らなかったようです。残念です。
実は遺骨奪還を企てる人がいました。東京裁判の一部弁護士と僧侶。心ある人もいたものです。命がけの奪還です。一部を闇に紛れて持ち出していましたが一度は失敗しクリスマスで手薄になった隙に改めて骨捨て場からすくいあげた骨を持ち帰りしばらくは松井石根大将の興亜観音に安置されていたそうです。
愛知県西尾市東幡豆町に三ヶ根山があります。そこに殉国七士廟が立っていて碑文にこう書かれています。
「昭和23年12月23日未明、巣鴨で絞首刑を執行された。米中ソの三国代表が立ち会い陛下の万歳を三唱して台上の露と消えた。この時の処刑係は米軍のマルチン・ルーサー・キング軍曹、後の黒人運動家の牧師であった。昭和35年に三ヶ根山に廟と墓碑が建立された。七氏を顕彰するためではなく、殉国者を悼むためのものである」

毎年4月29日「昭和天皇御誕生の日」に慰霊祭が行われます。現在では殉国七士廟の存在は多くの人々に知られ七士廟の周辺に大東亜戦争での戦没者を祀る各部隊の慰霊碑が並んでいます。
昭和54年昭和天皇皇后両陛下は第30回全国植樹祭のご出席の際、植樹祭の行われる場所から距離のあるこの三ケ山の高台のホテルにお泊りになりました。陛下のご要望によってです。ホテルからは「殉国七士廟」や「戦没者慰霊碑」が見える場所です。植樹祭当日 早朝侍従がお迎えに上がったところ両陛下は窓越しに廟にお向かいになられ15分間、黙祈されたそうです。

翌年には上皇后陛下と今上陛下、上皇陛下は七氏の命日(ご自分のお誕生日)に毎年使者をお寄せになるとか。靖国が政治利用され訪れることができない中、天皇はじめ皇族方はA組と呼ばれ無念な思いをしている御霊のことを決してお忘れではないということです。

秋篠宮家を侮辱する報道が多いです。後続の権威を貶め不要論を高める目的があると理解しましょう。私はどんな現象が起こっても源流は必ず引き継がれている。男系男子が守られて二千年、三千年と皇室(日本国体)が継続することを信じます。

日清日露大東亜を戦った日本。どの戦争にも開戦と終戦に理由があり天皇が詔(みことのり)を仰せになります。両方書きたいのですが、それは後記事に譲るとし大東亜戦争の終戦の詔勅を取り上げます。戦の詔勅とは日本が開戦終戦する理由を世界や国民に対して宣言するものです。少なくとも天皇のお気持ちが表明されています。この季節どのメディアでも「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」の部分だけを繰り返し流します。彼らは何を言いたいのでしょうか。何を印象付けたいのでしょうか。報道機関としてその時の天皇のお気持ちである詔勅を取り上げたことがあるのでしょうか、少なくとも私はテレビや新聞で解説を聞いたことがありません。日本のメディアなのに。だから知らない日本人もいけないと思いますので書いておきます。

【終戦の詔勅】原文
朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ 抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所曩ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス
然ルニ交戦已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ尽セルニ拘ワラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス 加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜を殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル 而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ  斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク 且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ 惟フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル 然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所 堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス 朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ  若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム  宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ   爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ  

【終戦の詔勅】現代訳
私は、世界の情勢とわが国の現状とを状況を深く考えあわせ 特な手立てをもってこの事態を収拾しようと決意し私の忠良なる国民に告げる。
私は わが政府に対しアメリカ・イギリス・中国・ソ連の4カ国に共同宣言(ポツダム宣言)を受諾する旨を通告させた。そもそも わが国民が平穏で安らかに生活できるよう心がけ世界の国々が共に栄えその喜びを共有することは 歴代天皇が手本として遺してきた教えであり私も常に祈ってきたところでもある。よってアメリカとイギリスの二国に宣戦布告した理由も わが国の自存とアジアの安定を心から願ったためであって他国の主権を排除したり領土を侵略したりするようなことは、まったく私の意志ではない。 しかしこの戦争が始まってすでに4年が経過し陸海軍の将兵は勇敢に戦い多くの役人たちも職務に励み、一億国民もそれぞれの職域に奉じ最善を尽くしてきたが戦局は必ずしも我がほうに好転せず 世界の情勢もまた日本にとって不利である。そればかりでなく 敵は新たに残虐な爆弾(原子爆弾)を使用して多くの罪なき人々を殺傷しその惨害がどこまで広がるかはかり知ることができない。このような状況で なおも戦争を続けるなら我が民族の滅亡を招くだけでなく ひいては人類の文明をも打ち壊すことになってしまうであろう。そのような事態になれば、私はどうして我が子である国民を守り歴代天皇の御霊お詫びすることができるであろう。これこそ私が政府に対しポツダム宣言を受託するに至った理由である。
私は、わが国とともに終始亜細亜の解放に努めた友好諸国に対し残念な想いを表明しないわけにはいかない。わが国民でも戦死したり職場で殉職したり不幸な運命で命を落とした人々やその遺族に思いをはせると悲しみで身も心も裂かれる思いである。また戦争で負傷し空襲などの戦禍に遭って家業を失った人々の生活を考えると深く心を痛めている。考えるに これからわが国が受ける苦難は大変なものだろう。 わが国民の気持ちも私はよく理解している。しかし時代の移り変わりはやむを得ないところであり耐えがたいことを耐えて我慢し難いことも我慢して人類未来の平和を実現するため道を拓いていきたい。
私は今ここに、国体を守り得て(皇統護持)忠良な国民の真心を信じつつ常に国民とともにある。もし感情のままに みだりに争いを起こしたり仲間同士互いに相手を貶し陥しいれたりして時局を混乱させ そのために人間の行うべき道徳を誤って世界から信用を失うようなことがあれば それは私が最も戒めたいことだ。全国民が家族のように仲良く団結し国を子孫に受け継ぎ わが国の不滅を固く信じ 国の再建と繁栄への任務は重く その道のりは遠いことを心に刻み持てる全ての力を未来の建設のために注ぐように。道義心を大切にし志を強くもって わが国の美点を発揮し世界の進歩に遅れないよう努力しなければならない。 わが国民よ、これが私の真意で意のあるところをよく理解して行動してほしい。

天皇の終戦の詔書の後半にお気持ちが良く出ていますね。堪えがたきを堪え・・が大事なところじゃないのもわかりましたね。なぜ全体を報道機関はもっと取り上げなければならないでしょう。教育勅語を忌避するGHQの教えに忠実なアメポチ日本の報道機関らしい対応です。戦前のものが全て間違っているというGHQのほうが間違っていたと思います。「皆と仲良く力を合わせて伝統を受け継ぎ栄えましょう」と日本人は言ってはいけないそうです。皇祖皇宗歴代天皇の教えですけれども。


米国人がいかに日本の天皇を理解できなかったか
分かる逸話を二つ。 

〈ダグラスマッカーサーの面会〉
昭和20年9月27日、来日に合わせて昭和天皇がマッカーサーのもとへお出ましになった時マッカーサーは他国の戦争指導者同様、天皇陛下が命乞いに来られたと思ったのです。陛下は「日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行われました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応じる覚悟でおります。しかしながら罪なき八千万の国民が、住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えないものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民の衣食住の点のみにご高配を賜りますように」
と仰せらて菊の御紋の袱紗包みを開けられました。そこには皇室の全財産目録がありました。自分の命はどうなってもよい天皇家の全財産をすべて差し出すので飢えた日本国民を救ってほしいということです。

1946年(昭和21年)2月から1954年(昭和29年)8月までの間に昭和天皇は日本国内を巡幸されます。各国の戦争指導者がそうだったように。GHQは各地で天皇が罵声を浴びたり暴漢に襲われることを予想していました。ところが各地で大歓迎を受けます。日本人の心が外国人にはわからないのでした。

〈天皇陛下さまが泣いてござった〉
昭和24年5月24日 佐賀県巡幸
この日陛下は、たってのご希望で、佐賀県三養基郡にある「因通寺」というお寺に行幸されています。
因通寺は、戦時中に亡くなられた第十五世住職の恒願院和上が、皇后陛下の詠まれた歌を大きな幟(のぼり)にして、それを百万人の女性たちの手で歌を刺繍して天皇陛下と皇后陛下の御許に奉じ奉ろうとされていたのです。
その歌というのが、昭和13年に皇后陛下が戦没者に対して詠まれた次の二首です。
 『やすらかに 眠れとぞ思う きみのため いのち捧げし ますらをのとも』
 『なぐさめん ことのはもがな たたかいの にはを偲びて すぐすやからを』
陛下は、このことをいたく喜ばれ、皇后陛下はすぐに針をおとりになって、御みずからこの大幟に一針を刺繍してくださったという経緯があります。また終戦後には因通寺は、寺の敷地内に「洗心寮」という施設を作り、そこで戦争で羅災した児童約40名を養っていました。

 陛下が寺におこしになるという当日、寺に至る県道から町道には、多くの人が集まっていました。道路の傍らはもちろんのこと、麦畑の中にも、集まった方がたくさんいました。その町道の一角には、ある左翼系の男が麦畑を作っていました。この男は、行幸の一週間くらい前までは、自分の麦畑に入る奴がいたら竹竿で追っ払ってやるなどと豪語していたのですが、当日、次々と集まってくる人達の真剣なまなざしや、感動に満ちあふれた眼差しをみているうちに、すっかり心が変わってしまい、自ら麦畑を解放してここで休んでください、ここで腰を下ろしてください」などと集まった方々に声をかけていました。朝、8時15分頃、県道から町道の分かれ道のところに、御料車が到着しました。群衆の人達からは、自然と「天皇陛下万歳」の声があがりました。
誰が音頭をとったというものではありません。群衆の自然の発露として、この声があがりました。
御料車が停車しますと、群衆の万歳の声が、ピタリとやみました。一瞬、静まり返ったところに、車から、まず入江侍従さんが降り立たれ、そのあとから陛下が車から降りられると、入江侍従さんが、陛下に深く頭を下げられる。その瞬間、再び群衆の間から、「天皇陛下万歳」の声があがりました。陛下は、その群衆に向かって、御自らも帽子をとってお応えになられる。その姿に、群衆の感動はいっそう深まりました。ここに集まった人達は、生まれてこのかた、お写真でしか陛下のお姿を拝見したことがない。その陛下が、いま、目の前におわすのです。
言い表すことのできないほどの感動が群衆を包み込みました。お車を停められたところから、因通寺の門まで約700メートルです。その700メートルの道路の脇には、よくもこんなにもと思うくらい、たくさんの人が集まっていました。そのたくさんの人達をかきわけるようにして、陛下は一歩一歩お進みになられたそうです。
町役場のほうは、担当の役席者が反日主義者(当時、まともな人は公職追放となり、共産主義者が役席ポストに座っていた)で、まさかこんなにも多くの人が出るとはおもってもみなかったらしく、道路わきのロープもありません。陛下は、ひとごみのまっただ中を、そのまま群衆とふれあう距離で歩かれたのです。そして沿道の人達は、いっそう大きな声で「天皇陛下万歳」を繰り返しました。その声は、まるで大地そのものが感動に震えているかのような感じだったと言います。陛下が寺の山門に到着されました。
山門の前は、だらだらした上り坂になっていて、その坂を上り詰めると、23段の階段があります。その階段を登りきられたとき、陛下はそこで足を停め、「ホーッ」と感嘆の声をあげられました。そうです。石段を登りきった目の前に、新緑に彩られた因通寺の洗心の山々がグッと迫っていたのです。陛下は、その自然の織りなす姿に、感嘆の声をあげられた。陛下が足をお留めになられている時間があまりに長いので、入江侍従さんが、陛下に歩み寄られ、何らかの言葉を申し上げると、陛下はうなずかれて、本堂の仏陀に向かって恭しく礼拝をされました。
そして孤児たちがいる洗心寮に向かって歩かれました。寮の二階の図書室で、机を用意して、そこで佐賀県知事が陛下にお迎えの言葉を申し上げるという手はずになっていたのです。図書室で、所定の場所に着かれた陛下に、当時佐賀県知事だった沖森源一氏が、恭しく最敬礼をし、陛下にお迎えの言葉を述べました。
「本日ここに、90万県民が久しくお待ち申し上げておりました 天皇陛下を目の当たりに・・・・」
そこまで言上申し上げていた沖森知事は、言葉が途切れてしまいました。知事だって日本人です。
明治に生まれ、大正から昭和初期という日本の苦難の時代を生き、その生きることの中心に陛下がおわし、自分の存在も陛下の存在と受け止めていたのです。知事は陛下のお姿を前に、もろもろの思いが胸一杯に広がって、嗚咽とともに、言葉を詰まらせてしまったのです。するとそのとき入江侍従さんが、知事の後ろにそっと近づかれ、知事の背中を静かに撫でながら、「落ち着いて、落ち着いて」と申されました。
すると不思議なことに知事の心が休まり、あとの言葉がスムーズに言えるようになったそうです。
この知事のお迎えの挨拶のあと、お寺の住職が、寺にある戦争羅災孤児救護所についてご説明申し上げることになっていました。自分の前にご挨拶に立った知事が、目の前で言葉を詰まらせたのです。自分はあんなことがあってはいけない、そう強く自分に言い聞かせた住職は奏上文を書いた奉書を持って、陛下の前に進み出ました。
そして書いてある奏上文を読み上げました。
「本日ここに一天万乗の大君をこの山深き古寺にお迎え申し上げ感激これにすぎたるものはありません」
住職はここまで一気に奏上文を読み上げました。ところがここまで読み上げたところで、知事の胸にググっと熱いものが突き上げてきました。引き揚げ孤児を迎えに行ったときのこと、戦争で亡くなった小学校、中学校、高校、大学の級友たちの面影、「天皇陛下万歳」と唱えて死んで行った戦友たちの姿と、一緒に過ごした日々、そうしたありとあらゆることが一瞬走馬灯のように頭の中に充満し、目の前におわず陛下のお姿が霞んで見えなくなり、陛下の代わりに戦時中のありとあらゆることが目の前に浮かんで、奏上申し上げる文さえも奏書から消えてなくなったかのようになってしまったのです。
意識は、懸命に文字を探そうとしていました。けれどその文字はまったく見えず、発する言葉も声もなくなってしまいました。ただただ、目から涙がこぼれてとまらない。どう自分をコントロールしようとしても、それがまったく不可能な状態になってしまわれたのです。そのとき誰かの手が、自分の背中に触れるのを感じました。
入江侍従さんが、「落ち着いて、落ち着いて」と背中に触れていてくれたのです。このときのことを住職は、前に挨拶に立った知事の姿を見て、自分はあんなことは絶対にないと思っていたのに、知事さんと同じ状態になってしまったと述べています。ようやく気を取り直した住職は、自らも戦地におもむいた経験から、天皇皇后両陛下の御心に報いんと、羅災孤児たちの収容を行うことになった経緯を奏上しました。この奏上が終わると、何を思われたか陛下が壇上から床に降り立ち、つかつかと住職のもとにお近寄りになられました。
「親を失った子供達は大変可哀想である。人の心のやさしさが子供達を救うことができると思う。預かっているたくさんの仏の子供達が立派な人になるよう心から希望します」
と住職に申されました。住職はそのお言葉を聞き、身動きさえもままなりませんでした。
この挨拶のあと陛下は、孤児たちのいる寮に向かわれました。
孤児たちには、あらかじめ陛下がお越しになったら部屋できちんと挨拶するように申し向けてありました。
ところが一部屋ごとに足を停められる陛下に、子供達は誰一人ちゃんと挨拶しようとしません。
昨日まであれほど厳しく挨拶の仕方を教えておいたのに、みな呆然と黙って立っていました。

広島巡幸 1947年12月7日 原爆ドーム
地元の従軍記念碑

すると陛下が子供達に御会釈をなさるのです。頭をぐっとおさげになり、腰をかがめて挨拶され、満面に笑みをたたえていらっしゃる。それはまるで陛下が子供達を御自らお慰めされているように見受けられました。
そして陛下はひとりひとりの子供に、お言葉をかけられました。

「どこから?」-「満州から帰りました」-「北朝鮮から帰りました。」すると陛下は、この子供らに「ああ、そう」とにこやかにお応えになる。そして「おいくつ?」-「七つです」
「五つです」と子供達が答える。すると陛下は、子供達ひとりひとりにまるで我が子に語りかけるようにお顔をお近づけになり「立派にね、元気にね」とおっしゃる。

陛下のお言葉は短いのだけれど、その短いお言葉の中に、深い御心が込められています。そしてそのお心が、短い言葉で、ぜんぶ子供達の胸にはいって行く。陛下が次の部屋にお移りになると、子供達の口から「さようなら、さようなら」とごく自然に声がでるのです。

すると子供達の声を聞いた陛下が、次の部屋の前から、いまさようならと発した子供のいる部屋までお戻りになられ、その子に「さようならね、さようならね」と親しさをいっぱいにたたえたお顔でご挨拶なされるのです。

次の部屋には、病気で休んでいる二人の子供がいて、主治医の鹿毛医師が付き添っていました。その姿をご覧になった陛下は、病の子らにねんごろなお言葉をかけられるとともに、鹿毛医師に「大切に病を治すように希望します」と申されました。鹿毛医師は、そのお言葉に、涙が止まらないまま、「誠心誠意万全を尽くします」
と答えたのですが、そのときの鹿毛医師の顔は、まるで青年のように頬を紅潮させたものでした。
こうして各お部屋を回られた陛下は、一番最後に禅定の間までお越しになられました。
この部屋の前で足を停められた陛下は、突然、直立不動の姿勢をとられ、そのまま身じろぎもせずに、ある一点を見つめられました。それまでは、どのお部屋でも満面に笑みをたたえて、おやさしい言葉で子供達に話しかけられていた陛下が、この禅定の間では、うってかわって、きびしいお顔をなされたのです。
入江侍従長も、田島宮内庁長官も、沖森知事も、県警本部長も、何事があったのかと顔を見合わせました。
重苦しい時間が流れました。

ややしばらくして、陛下がこの部屋でお待ち申していた三人の女の子の真ん中の子に近づかれました。そしてやさしいというより静かなお声で、「お父さん?お母さん?」とお尋ねになったのです。
一瞬、侍従長も、宮内庁長官も、何事があったのかわかりません。
けれど陛下の目は、一点を見つめています。
そこには、三人の女の子の真ん中の子の手には、二つの位牌が胸に抱きしめられていたのです。
陛下はその二つの位牌が「お父さん?お母さん?」とお尋ねになったのです。
女の子が答えました。「はい。これは父と母の位牌です」これを聞かれた陛下は、はっきりと大きくうなずかれ、
「どこで?」とお尋ねになられました。「はい。父はソ満国境で名誉の戦死をしました。 母は引揚途中で病のために亡くなりました」この子は、よどむことなく答えました。すると陛下は「おひとりで?」とお尋ねになる。
父母と別れ、ひとりで満州から帰ったのかという意味でしょう。「いいえ、奉天からコロ島までは日本のおじさん、おばさんと一緒でした。船に乗ったら船のおじさんたちが親切にしてくださいました。佐世保の引揚援護局には、ここの先生が迎えにきてくださいました」
この子がそう答えている間、陛下はじっとこの子をご覧になりながら、何度もお頷かれました。
そしてこの子の言葉が終わると、陛下は「お淋しい?」と、それは悲しそうなお顔でお言葉をかけらました。
しかし陛下がそうお言葉をかけられたとき、この子は「いいえ、淋しいことはありません。私は仏の子です。
仏の子は、亡くなったお父さんともお母さんとも、お浄土に行ったら、きっとまたあうことができるのです。
お父さんに会いたいと思うとき、お母さんに会いたいと思うとき、私は御仏さまの前に座ります。そしてそっとお父さんの名前を呼びます。そっとお母さんの名前を呼びます。するとお父さんもお母さんも、私のそばにやってきて、私を抱いてくれます。だから私は淋しいことはありません。私は仏の子供です。」
こう申し上げたとき、陛下はじっとこの子をご覧になっておいででした。この子も、じっと陛下を見上げていました。陛下とこの子の間に、何か特別な時間が流れたような感じがしました。
そして陛下が、この子のいる部屋に足を踏み入れられました。部屋に入られた陛下は、右の御手に持たれていたお帽子を左手に持ちかえられ、右手でこの子の頭をそっとお撫でになられました。そして陛下は、
「仏の子はお幸せね。これからも立派に育っておくれよ」と申されました。
そのとき、陛下のお目から、ハタハタと数的の涙が、お眼鏡を通して畳の上に落ちました。
そのときこの女の子が、小さな声で、「お父さん」と呼んだのです。これを聞いた陛下は、深くおうなずきになられました。その様子を眺めていた周囲の者は、皆、泣きました。東京から随行してきていた新聞記者も、肩をふるわせて泣いていました。子供達の寮を後にされた陛下は、お寺の山門から、お帰りになられます。

山門から県道にいたる町道には、たくさんの人達が、自分の立場を明らかにする掲示板を持って道路の両側に座り込んでいました。その中の「戦死者遺族の席」と掲示してあるところまでお進みになった陛下は、ご遺族の前で足を停められると、「戦争のために大変悲しい出来事が起こり、そのためにみんなが悲しんでいるが、自分もみなさんと同じように悲しい」と申されて、遺族の方達に、深々と頭を下げられました。遺族席のあちここちから、すすり泣きの声が聞こえました。陛下は、一番前に座っていた老婆に声をかけられました。「どなたが戦死されたのか?」-「息子でございます。たったひとりの息子でございました」そう返事しながら老婆は声を詰まらせました。
「うん、うん」と頷かれながら陛下は「どこで戦死をされたの?」「ビルマでございます。激しい戦いだったそうですが、息子は最後に天皇陛下万歳と言って戦死をしたそうででございます。でも息子の遺骨はまだ帰ってきません。軍のほうからいただいた白木の箱には、石がひとつだけはいっていました。天皇陛下さま、息子はいまどこにいるのでしょうか。せめて遺骨の一本でも帰ってくればと思いますが、それはもうかなわぬことでございましょうか。天皇陛下さま。息子の命はあなたさまに差し上げております。息子の命のためにも、天皇陛下さま、長生きしてください。ワーン・・・・」そう言って泣き伏す老婆の前で、陛下の両目からは滂沱の涙が伝わりました。そうなのです。この老婆の悲しみは陛下の悲しみであり、陛下の悲しみは、老婆の悲しみでもあったのです。そばにいた者全員が、この様子に涙しました。遺族の方々との交流を終えられた陛下は、次々と団体の名を掲示した方々に御会釈をされながら進まれました。

そして「引揚者」と書かれた人達の前で、足を停められました。そこには若い青年たちが数十人、一団となって陛下をお待ちしていました。
実はこの人達は、シベリア抑留されていたときに徹底的に洗脳され、日本革命の尖兵として日本の共産主義革命を目的として、誰よりも早くに日本に帰国せしめられた人達でした。
この一団は、まさに陛下の行幸を利用し、陛下に戦争責任を問いつめ、もし陛下が戦争責任を回避するようなことがあれば、暴力をもってしても天皇に戦争責任をとるように発言させようと、待ち構えていたのです。
そしてもし陛下が戦争責任を認めたならば、ただちに全国の同志にこれを知らしめ、日本国内で一斉に決起して一挙に日本国内の共産主義革命を実施し、共産主義国家の樹立を図る手はずになっていました。そうした意図を知ってか知らずか、陛下はその一団の前で足をお止めになられました。そして「引揚者」と書いたブラカードの前で、深々とその一団に頭を下げられました。「長い間、遠い外国でいろいろ苦労して大変であっただろうと思うとき、私の胸は痛むだけでなく、このような戦争があったことに対し、深く苦しみをともにするものであります。
みなさんは外国において、いろいろと築き上げたものを全部失ってしまったことであるが、日本という国がある限り、再び戦争のない平和な国として新しい方向に進むことを希望しています。みなさんと共に手を携えて、新しい道を築き上げたいと思います。」陛下の長いお言葉でした。
そのときの陛下の御表情とお声は、まさに慈愛に満ちたものでした。はじめは眉に力をいれていたこの「引揚者」の一団は、陛下のお言葉を聞いているうちに、陛下の人格に引き入れられてしまいました。「引揚者」の一団の中から、ひとりが膝を動かしながら陛下に近づきました。そして、「天皇陛下さま。ありがとうございました。いまいただいたお言葉で、私の胸の中は晴れました。引揚げてきたときは、着の身着のままでした。外地で相当の財をなし、相当の生活をしておったのに、戦争に負けて帰ってみればまるで赤裸です。生活も最低のものになった。ああ戦争さえなかったら、こんなことにはならなかったのにと思ったことも何度もありました。そして天皇陛下さまを恨んだこともありました。しかし苦しんでいるのは、私だけではなかった。天皇陛下さまも苦しんでいらっしゃることが、いま、わかりました。今日からは決して世の中を呪いません。人を恨みません。天皇陛下さまと一緒に、私も頑張ります!」と、ここまでこの男が申した時、そのそばにいたシベリア帰りのひとりの青年が、ワーッと泣き伏したのです。「こんな筈じゃなかった。こんな筈じゃなかった。俺が間違えていた。俺が誤っておった」と泣きじゃくるのです。すると数十名のシベリア引揚者の集団のひとたちも、ほとんどが目に涙を浮かべながら、この青年の言葉に同意して泣いている。彼らを見ながら陛下は、おうなずきになられながら、慈愛をもって微笑みかけられました。それは、何も言うことのない、感動と感激の場面でした。

いよいよ陛下が御料車に乗り込まれようとしたとき、寮から見送りにきていた先ほどの孤児の子供達が、陛下のお洋服の端をしっかりと握り、「また来てね」と申しました。すると陛下は、この子をじっと見つめ、にっこりと微笑まれると「また来るよ。今度はお母さんと一緒にくるよ」と申されました。御料車に乗り込まれた陛下が、道をゆっくりと立ち去っていかれました。
そのお車の窓からは、陛下がいつまでも御手をお振りになっていました。宮中にお帰りになられた陛下は次の歌を詠まれました。

 『みほとけの教へ まもりて すくすくと
     生い育つべき 子らに幸あれ』
(御歌は因通寺の大梵鐘に鋳込まれています)

正義はその国々によって異なるのでしょう。私は少なくとも反日自虐教育によって日本に戦争を肯定する大義などないと思っていました。もちろん負の面もあります。しかし正義もあります。日本人でなければわからない情緒も事情もありました。そういうものを知ったうえで戦争犯罪というものを考え。靖国に詣でます。(何年も行っていませんが)地元の神社にも従軍碑があります。日清日露大東亜に地元から出征して人の名が連ねてあります。感謝です。日本には日本人の理屈があってよいではないですか外国人に理解できなくても。同様に理解できない日本人がいても仕方のないことです。考えは押し付けません。しかし私が大事にしていることも否定しないでほしいと思います。お互いに慰霊すればよいではないですか。顕彰というとちょっと強く感じてしまう人がいるでしょうね。慰霊顕彰という言葉が強く感じるとしたら、それこそが自虐教育の残渣かもしれません。

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