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日本神話番外 確認 『古事記の味わいかた』

古事記を知らない人に興味を持っていただくために、これまで自分なりにブログを書いてきましたが、今ここで一度、古事記の意義について確認したいと思います。理由は意外にも身近に古事記が好き、とか古事記を何十年も研究しているというかたが多かったので、無論そういう方はご存知でしょうし説明の必要もない、というよりむしろ私が教えを請わなければならないのですが、皆さん一致しているのは古事記の中に日本人の生き方、こうするべき、こうすべきではないということが神話という形で描いてあるということを知っている。そして日本現状をみたとき、古事記を再考して知らしめなくてはいけないのではないかと皆思っているのです。

そこで古事記はどういうふうに味わうか。ということを一度お話ししておこうと思いました『味わう』というところがミソ。(味だから味噌ではありません)

カテゴリーの初めに書いたように原典は稗田阿礼(ひえたのあれ)の口伝を太安万侶が筆記したものです。
漢文で書かれて、外国向けの日本書紀の陰に隠れた存在であったものを、古事記こそ大和民族のための原書であるということを歴史学者でもある水戸光圀公が気付かれ国学者(本業は医師)の本居宣長先生に至って古い漢文の形で残っていた古事記を日本人が読める『古事記伝』というかたちであらわしたものを現代の私たちが受け継いでいるわけです。本居宣長先生が35年の歳月をかけて44巻の注釈書としてあらわしたのが『古事記伝』これに、訓読みをつけたものが『古訓古事記』さらに漢字かな交じりで書き改めて、がようやく我々が読める『書き下し文』ができたという流れです。

ですから古事記の原書が読める人はいないと思いますが、『古事記伝』の原文を勉強しているかたが大和民族の理念を理解するのに近いと思います。しかしそれだけではありません。学問や研究だけではないし、そんな難しくしなくてもいいと思います。もっと『古事記』は身近でいいんです。というより身近じゃなければならないのです。

古事記は口承されたものであるということは『音』が大事ということなのです。『音』で解釈する。逆説的ですが、大和民族なら音で、或いは書き下し文でも『解釈』できるでしょう。というものなのです。何十年も人生をかけて解釈した本居宣長先生の注釈がより正確なのは当たり前なのですが、その精髄は日本人なら感じることができると私は思っており。ブログには私なりの解釈を若干加えさせていただいていることを再度申しておきます。

だから皆さんにも興味を持ったらいろいろな本を読んで、それぞれに感じてほしいです。それが味わうということなのだと思います。古事記は味わうもの(自らの生活に重ね汲み取るもの)ということです。

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