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日本神話 悲運の皇子 倭建命(ヤマトタケルノミコト)日本武尊

もっと後に書こうと思っていましたが敢えて日本武尊(ヤマトタケルノミコト)のお話しです。日本武尊と郷土の物語の2本立てです。まず初めに本稿は記紀(古事記/日本書紀)の中で皇子の御名も地名も場所も年代も若干のズレがあって説が定まっていないこともあることをご理解ください。

以前も書きましたが古事記は日本人用、日本書紀は海外主にChina向けであること。ともに40代 天武天皇の時代に編纂が始まったこと。私は学者でも研究者でもないこと。真実と事実は異なり私は真実のほうを大切にしたいと思っていることを記しておきます。

ここからは日本書記の日本武尊という字を用いていきます。知らないことをいつ気づいても問題はありません。今知ったって昔から知っていたって価値は同じです。知らないまま知ろうとしないことを恥ずるべきです。私は高校生の時オートバイ大好きで教室にポスターを貼っていました。壁3面がオートバイのポスターで埋まるというすごい環境でした。オートバイで主に埼玉/群馬/長野を走っていました。武尊(ホダカ)山//吾妻郡嬬恋村/旧碓氷(ウスイ)峠/秩父/長瀞等のルートはよく行きました。これも以前書きましたが熊谷に住んでいて何故航空自衛隊が熊谷にあってその近くに御稜威ケ原なる地名があるのか高校生の時には深く考えませんでしたがオートバイで走っていたルートの地名にも何か引っかかるものがありながらも深く考えることはありませんでした。

さて、日本武尊のお話です。(日本書記は天皇を海外に紹介する面があるので書かれ方が古事記と違います)
日本武尊は12代 景行天皇の数多く(80人といわれる)の子の第2子。大碓(オオウス)命の弟である小碓(ヲウス)命(後の日本武尊)に命に従わない兄を諭すように言われるのですが小碓命は兄を殺害してしまいます。景行天皇は小碓命に危険を感じて自分から遠ざけようと九州南部の討伐を命じます(この過程で熊曾健から倭建命(日本武尊)の名を受ける)難なく出雲まで平定して大和(やまと奈良県)に帰ります。これが日本武尊の征西です。しかし今度は直ちに東十二国の征伐(東征)を命ぜられます。きっと父(景行天皇)は自分に死んでほしいのだなと感じた日本武尊は悲しみますが叔母の倭比売命(ヤマトヒメノミコト)に励まされ天叢雲剣(アマノムラクモノツルギ(須佐之男命がヤマタノオロチの尾から取り出した剣)と小さな袋を授かって旅立ちます。駿河の国(静岡)で国造に焼き殺されそうになった時。天叢雲剣で草を焼き払い逆に袋に入っていた火打石で相手に火を放ち返討ちにします。これよりこの地を焼津とよび剣も草薙剣(くさなぎのつるぎ)と呼ばれるようになります。

この東征に同行していたのが后の弟橘比売命(オトタチバナヒメノミコト)です。走水海(浦賀水道)を渡るとき海が荒れ船が転覆しそうになります。

弟橘比売命は皇子が天皇の務めを果たすため自らが入水して海の神を鎮めます。無事に船が渡った7日後に弟橘比売命の櫛が浜で見つかります。
『さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の火中に立ちて 問ひし君はも』  弟橘比売命が入水時に詠んだ辞世の歌
(相模野で火に囲まれたとき火中に立って私を気遣ってくださったあなたがどうかご無事でありますように)

この危機を乗り切った日本武尊は東夷十二国を平定した帰路の碓氷峠で霧で道に迷った際に八咫烏が現れ紀州熊野の梛木(ナギ)の葉をくわ先案内し山頂に着きました。日本武尊は碓氷峠の山頂から相模灘で荒波を静める為に海中に身を投じた弟橘比売命を偲び「吾嬬者耶(アヅマハヤ)」(ああ、いとしき我が妻よ)と三度繰り返し叫びます。この由来により碓氷峠には群馬長野にまたがる珍しい県境鎮座の熊野神社があります。また群馬の嬬恋・吾妻(あずま)・霧積 ・武尊(ほたか)山等の地名も古事に縁のあるものなのです。

更に地元埼玉秩父の三峰神社の由来は碓氷峠に向かう途中三峯山に登り山川の美しい様子から国生み二神(伊邪那岐命/伊邪那美命)を偲んでお祀りしたのです。この時道案内したのが狼(山犬)であったとされ神様の使いとして一緒にお祀りされています。(絶滅したニホンオオカミは秩父で生きているという伝説もあります)

もっと会社に近い長瀞の宝登山でも山火事にあった際、巨犬に助けられたという伝説から巨犬(山犬=おおかみ)を大口真神として祀っています。山名もこの逸話から「火止山」=「宝登山」となったといわれ三峰神社とともに狛犬は犬の形をしています(獅子形ではない)。後に景行天皇も日本武尊が平定した東国を巡幸されたということです。

日本武尊は東征から大和を目指す途中、美夜受比売と結ばれますが古(いにしえ)の習慣ですから弟橘比売命への愛には変わりはないのです。近江の伊服岐山の神に受けた傷がもとで日本武尊は命を落とします。あともう少しで大和に帰れるのに。故郷に愛されなかった日本武尊の気持ちはどんなものだったでしょうか。

『倭(やまと)は国のまほろば 
      たたづなく青垣山隠(ごも)れる 倭しうるはし』

(やまとのくには最もよい国である重なり合った青い山々が前後するやまとは美しい)
日本武尊 辞世の歌です。
(辞世の歌とは最期の歌であり出征死したたくさんの人も残しています日本人の習慣みたいなものですね)
日本武尊の魂は大きな白鳥となって能褒野(のぼの)を飛び立ち河内の国の志幾に地に降りたので御陵(みはか)を造り魂を鎮めました。その御陵は「白鳥(しらとり)の御陵(みささぎ)」といいます。

日本武尊の物語は大和朝廷の真実の記録です。これからは事実現実の世界のお話に入ってまいります。

10代から21代の天皇の系譜を貼りました。大事なのは直系の嫡子で継承しているわけではないということです。男系男子の継承が例外なく行われており

これは初代神武天皇から126代 今上天皇まで2682年間一度も原則を外れたことはありません

さて景行天皇の悲劇の皇子である日本武尊。13代 成務天皇は景行天皇の第4子ですが日本武尊とはお母様が違います。14代 仲哀天皇は日本武尊の皇子、更にその御子は私がそこまでは書こうと思っている15代 応神天皇、諱(いみな)は譽田天皇(ほむたのすめらみこと)八幡神社の御祭神です。お母様は最も有名な皇后、神功皇后です。16代 仁徳天皇以降は風土記などの史実との一致が多くなっていきます。21代の雄略天皇のころ大和の勢力範囲は日本武尊の治めた東北から九州までに拡大していることが証明されるようになってきました。

私たちに縁の深い埼玉県行田市に埼玉(崎玉サキタマ)という地名があり埼玉の地名の基と言われています。埼玉古墳群という関東最大の古墳群9基の古墳が残っています。おそらく古代はもっと多くの古墳が同時期に存在していたでしょう。丸墓山古墳は円墳、それ以外の8基は前方後円墳であることから大和朝廷との関係は昔からあるといわれてきました。その中の稲荷山古墳から1968年に出土した副葬品 金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)は出土10年後X線検査をしたところ剣身に表面57文字、裏面58文字の計115文字の銘文が金象嵌で刻まれていることがわかりました。年号は西暦で書いてありませんから辛亥年の解釈は西暦471か531年かですが、書かれている獲加多支鹵大王(ワカタケルオオキミ)が日本書記から雄略天皇のことだと推察されています。いろいろなことがつながってきたので仕上げに入りますが私の若いころからの郷土の由来が少しずつ繋がってきました。12代 景行天皇の御代で東北から九州までを平定した大和朝廷は21代 雄略天皇の時代に古墳時代のピークを迎えたのだと思います。

銀象嵌銘大刀(ぎんぞうがんめいたち)という剣も明治期に発掘されて国宝指定されています。こちらには銀75文字の銘文が刻まれています。一部判読不明な部分がありますが後に発見された金錯銘鉄剣の読み方からやはりワカタケルと書いてあることがわかりました。雄略天皇のことですね。双方の剣に雄略天皇の朝廷に仕えたことが書いてあるということはそういうことです。銀象嵌銘大刀が出土したのは熊本県玉名郡和水町江田船山古墳です。

埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した    金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)
熊本県玉名郡和水町江田船山古墳から出土した 銀象嵌銘大刀(ぎんぞうがんめいたち)

埼玉県と熊本県が繋がったでしょう。私は古のご縁を感じざるを得ません。もう1800年以上前には同じ文化文明で結ばれていたわけです。私たちと同じ暮らしをあなたたちもしていたんですね。こんなに離れていても。そして郷土地域にはそれぞれに神話とつながった地があります。神話と歴史が一つにつながっていているということが他国に類を見ないことであるという事実。日本人として大事にしなければなりませんね。

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