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紀元節 皇紀2682年 日本国のお誕生日

今日は日本国の誕生日。多くの祝祭日が改名させられて元来の意味が分からなくなっています。本当は『紀元節』ですね。橿原の宮で初代神武天皇が即位して今年で建国2682歳になりました。おめでたいですがただ長ければよいというものではありません。そこに住む国を構成する国民が成り立ちを知らない誕生日に意味はないですから。皆で祝ってこそのの誕生日です。外出していませんがきっと近隣で日章旗を掲揚している家は少ないでしょう。もちろん我が家は掲げています。本当はみんなでお祝いしたい、そのための祝日ですからね。

大東亜戦争前のすべての歴史の自己否定が未来の日本に何の意味があるのでしょうか。戦前の日本の否定が戦争しない国になることにつながるという人もいますが私は自分の脚で立つことができない依存性の高い人間が量産されて結果的に国力が落ちていくと思っています。

このことは多くの先人が懸念していました。三島由紀夫・西部邁・最近では石原慎太郎各氏が知られていますが皆、自立できない日本の将来を憂いて鬼籍に入られました。自主独立をしないままの国と国民性が関係していないわけがありません。このままでは国が精神から失われるという危機を私も感じています。

そんな中、行われている北京の冬季オリンピックで考えさせられたことがありました。一つは数日前に初めて行われたスキージャンプの男女混合団体。高梨選手が失格になったこと。選手には大変気の毒なことでした。この規格検査は全員ではなく抜き打ちで今回に関しては計測の仕方も普段と違っていたそうです。5か国失格なんて異例なことですから検査側に問題があった可能性もあります。今回は事後抗議の意見書の提出がありそうですがこういったとき日本は堂々と意義を主張すべきだと思います。波風立てずに自重するのが日本人の美徳みたいな考えは国民性かもしれませんが「いつか必ず言える立場になる」という強気が昔の日本人「そのうちみんな忘れるだろう」という弱気が今の日本人のように思えます。行動は同じでも意味は全く違います。

モヤモヤしている中で今日のスノーボードハーフパイプの平野歩夢選手の事件です。2回目に人類最高難度のルーティンを成功させるも採点がトップの92.50点に届かず91.75の2位。誰もがこの採点に疑問を持ったはず。普通ならここで心が折れたり腐ったりしてしまい3回目にも影響が出ると思ったところが平野歩夢選手はこの採点への怒りをバネにして3回目は2回目と同じ構成で96点を得て金メダルを獲得しました。

その間、彼は感情に表さず淡々としていて結果で周囲をうならせました。日本の若者も捨てたものじゃないと希望を持たせてもらい自からの行いも反省させられる思いでした。建国記念の日(紀元節)と、この若者の立ち振る舞いを結び付けた人は少ないと思いますが、これも何か因縁を感じないわけにはいきません。若者は日本の希望の源泉です。若者に希望が持てるうちは国は大丈夫。会社や家族も同じことです。

追記  (ハーフパイプ採点)
審判員                   1回目→2回目
スウェーデン     96→98
フランス                92→95
カナダ                   90→96
アメリカ                89→96
日本                       95→97
スイス                   90→95

カナダ/アメリカ/スイスがブレすぎですね。先のスキージャンプでもジャッジと対象国の関係を見ると思惑を感じないでもありません。採点競技特有の何かがありますね。それを行動で誰にも文句を言わせない結果を出すというところが今回、私が感動した点であります。これで誰も文句言えないだろうというクールな中に燃えたものがあったのでしょう。実に日本を感じる出来事でした。

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