藤井一中尉のこと。(2) お彼岸にて

今年の春の彼岸は、7箇所のお墓参りに行きました。真っ先に念願の藤井一中尉ご一家のところにもうかがいました。遅すぎたなぁ と思います。大東亜戦争は遠い昔の祖先のものになりつつあります。現代の戦争はソフトな戦いです。経済や資源および人材の依存や力を背景とした威嚇によって、相手を屈服させるものになっています。現代のわれわれはそれに備えねばなりません。

75年前は武力を行使した戦争でした。当時の日本人は、当時の価値観の中で戦いました。しかし私の持論ですが既に大正から昭和にかけては日本人の劣化が始まっていました。簡単で申し訳ありませんが海軍は士官を特攻に行かせず温存。陸軍は海への攻撃前提で訓練していないのに机上の空論による特攻。司令官、参謀クラスはド素人の逃げ回り、陸海ともイジメ体質。結局命を差し出したのは下士官や兵ばかり。

藤井中尉がどうしても我慢できなかったこと、自分のことのようにわかります。でも私には絶対できなかったと思います。特攻という行為は大西瀧二郎中将のいうように統率の外道、当時でも多くの反対者がいたようにやってはならない ある意味日本軍の恥部であり同時に散華された英霊は顕彰しなければならない存在です。

以前に書きましたが出征はしたものの敵の姿を一度も見ることなく、病気になって戦友に迷惑をかけ湿地で足が抜けなくなったまま死んでしまったような方々が沢山いたわけです。靖国で英霊なんて呼ばれてよいのかな。と思っている方々に心からお礼します。出征していただいただけで充分英霊です ありがとうございます。

散華した英霊とそのご家族がずっと大切にされる存在なら良いのですが僅か75年で日本の墓参りも変わりました。いつまでこのような風習が残るのか疑問です。藤井中尉の墓所には彼岸の入りの昼に伺いましたが、既に献花がされていました。ご家族でしょうか ほっとしました。私は今回 許可を取って伺いましたが もうそっとしておいてほしいというニュアンスだったこと書き添えておきます。

藤井中尉のこと語り継いでいかなければならないと思っている方、どのくらいいらっしゃるのでしょうか。私はもちろんそう思っていますし、ある意味その役目が自分にあるのではないかと勝手に思っています。
藤井中尉ご一家のことを想う人のために、墓石に刻まれた文字を謹んで写させていただきました。個人名の部分は○○とさせていただきました。


昭和廿年五月二十八日 戦死 俗名 藤井一 行年 三十一才
昭和十九年十二月十五日 同人妻 同 ふく 同 二十五才
昭和十九年十二月十五日 一ノ長女 同 一子 四才
昭和十九年十二月十五日 一ノ次女 同 千恵子 一才

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