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藤井一 中尉のこと。(1)

5月28日は藤井中尉のご命日でした。私は毎週土曜日に(本当は毎日しなければいけませんが)先祖その他の御霊に読誦するので、藤井一中尉にも聞いていただけるように読みました。これは多くの悲劇の中のひとつです。戦争は狂気でありかかわる人間も狂わしてしまいます。私はこの地に縁をいただいたことでこのことを記します。恒久の平和を祈って。

熊谷陸軍飛行学校の藤井一中尉のこと。webで調べてみてくださいと以前書きましたが、調べていないかたのために簡単に書かせていただきます。詳しくはyoutubeで「藤井一」と打てば良く編集されたものがいくつか出てくるので見てください。

藤井中尉(後に2階級上がり少佐)は陸軍航空士官学校卒でしたがチャイナに赴任していたときの怪我でパイロットにはなれず熊谷陸軍飛行学校で軍人勅諭に基づく精神訓話の教官をしていました。生徒には「事あらば敵陣、或いは敵艦に自爆せよ、中隊長(藤井中尉)もかならず行く」いつも言っていました。本来心根は優しくても教育は厳しい中尉は戦況が悪くなるに従って送り出した生徒との約束を果たさなければと苦しみ、家族に内緒で特攻の嘆願を何度も出します。家族もあり教官でもある中尉の嘆願は受理されるはずもないのですが諦めません。やがて妻のふく子さんにそのことが知れます。ふく子さんは中尉の性格を知った上で何度も止めるように説得しますが聞き入れてもらえません。覚悟を決めたふく子さんは中尉が週番司令として一週間宿泊勤務するため家を留守にした日、昭和19年12月14日、一子ちゃん(長女3歳)千恵子ちゃん(次女1歳)に晴れ着を着せ、荒川に向かいます。
河川敷で一子ちゃんと自分を縛って離れないようにし千恵子ちゃんをおんぶしたまま入水し翌日発見されます。
3人紐で結ばれたまま離れず蝋人形のように並んで河川敷に寝かせられていました。このことは軍が徹底的に管理し外部には漏れず。葬儀も極秘で行われたそうです。ふく子さんの遺書には「私たちがいたのでは後顧の憂いになり、存分の活躍ができないことでしょう。お先に逝って待ってます」と書かれていました。いつも豪快な中尉が呻くようにふるえていたそうです。葬儀の後一子ちゃんに宛てて読まれることのない手紙を書きます。

このことで誰もが藤井には死しかないと思ったそうです。中尉は軍に血書嘆願を出します。今回ばかりは受理されました。事件のため中尉は鉾田陸軍飛行学校へ異動になります。熊谷陸軍飛行学校でささやかなお別れ会が催され学校の幹部や生徒達がお金を出し合って軍刀を送ります。しかし、あの事件のことは公になっていないので誰も口にしませんでした。昭和20年5月28日、第45振武隊として小川彰少尉が操縦する機に通信員として搭乗し出撃「われ突入する」の電信を最後に散華されました。天国で家族みんなとやっと会えたのでしょう。一子ちゃんは手紙を読んでイヤイヤせずに中尉の胸に抱かれたでしょうか。知覧の平和記念館のこの遺書はイラストと文字に藤井中尉の人柄が良く出ています。鹿児島を訪れた際は訪ねてみてください。


一子ちゃん宛ての遺書


冷え十二月の風の吹き飛ぶ日 荒川の河原の露と消し命。母とともに殉国の血に燃ゆる父の意志に添って、一足先に父に殉じた哀れにも悲しい、然も笑っている如く喜んで、母とともに消え去った命がいとほしい。父も近くお前たちの後を追って行けることだろう。嫌がらずに今度は父の暖かい懐で、だっこしてねんねしようね。それまで泣かずに待っていてください。千恵子ちゃんが泣いたら、よくお守りしなさい。ではしばらく左様なら。父ちゃんは戦地で立派な手柄を立ててお土産にして参ります。では、一子ちゃんも、千恵子ちゃんも、それまで待ってて頂戴


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