新紙幣の人選

5年後に新紙幣が発行されることになり1万円札の肖像画が渋沢栄一翁に決まったことは、道徳経済合一論を会社の理念として掲げる弊社としても誠に悦ばしい事です。津田梅子・北里柴三郎といずれも明治期に実際に海外に赴いて学び、帰国後各分野においての日本の礎となった方たちです。私は同じ日本人としてこの明治期の人々を誇りに思います。

と同時に、この明治という崇高な精神を持った人々が活躍した時代以降の日本人の劣化に大変憂い感じているのです。この3人はいずれも氏族や庄屋の家に生まれたことで好機を得て偉業を達成したという側面もありますが。明治という時代を見ると私がよくブログでも書く『気概』や『倫理』というものが現代の日本人と桁違いに優れていたように思えるのです。
以前の5千円の肖像であったキリスト教徒の新渡戸稲造が英語で書いた『武士道』を読むと日本人の中に武士の末裔は少ないはずですがその論語や朱子学を取り込んだ武士道精神というものが広く日本人の心の中に浸透していたことが伺えます。戦争に結び付けては犠牲となったかたがたに申し訳ありませんが、日清・日露・第一次世界大戦で出征したところの日本軍の規律正しさと綱紀粛正の厳格さは高く評価されたものでしたが、これらの戦争を経験した高位の将官のなかからは大東亜戦争の日本軍は皇軍と称するに相応しいような軍紀厳粛が保てていないという声がすでに出ていました。昭和初期までの50年間ですでに日本人の心は劣化していたということです。それは敗戦によってさらに加速して70年以上経ったのですから、昨今もてはやされている日本人らしさなどは相当怪しいものです。

上杉謙信が北条の塩止めで苦しんでいた敵方である武田信玄に塩を送った際の書簡にある「私は塩で戦いはしない剣で戦うのである」という言葉に武士道の精神が表れていて、明治の人はその精神をまだ持っていました。
日本人らしさは封印され解体され忘れ去られました。心の武装解除が行われたわけです。日本独自の倫理観は許されないのでしょうか。「日本を取り戻す」と どこかの総理が言っていましたが。なにをどう取り戻すつもりだったのかまったくわかりません。がんばってもそれが公正に報われない社会は本当にそうなのか、そう感じているだけなのではないか、あるいは『気概』と『倫理』を武器にそういったもに負けないように生きるのが人生の目的なのではないでしょうか。機会の公平は望ましいけれども現実には水平はあり得ません。才能を上回る努力と公正さがあれば、希望は実現します。

100年後、お札が残っているとしたら、その肖像画は東大の入学式でスピーチした社会学者さんでしょうか。私はそんなことも憂いています。

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