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社長ブログ
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株式会社サンエイ30年 社員向け文書
2022年10月21日

私の「人生の羅針盤」の記事後に社員向け文を挟んでおきます。
居室の壁に谷口雅春先生の揮毫による「百事如意」の扁額が掛かっています。これは「何事も想いのまま」というニューソート(光明思想)そのままのような言葉です。
常々、「私のブログは身内向け私が存在するうちはよいが死んだら読めよ」と言っているように。いずれ一度は完読してください。雑記はともかく「古事記」や「歴史」「人生の仕組み」等の記事は重要です。日本に生まれて日本で商売していく以上は。
新しい社員が増えました。どの会社も、日本社会全体が世代交代期を迎えていますがジェネレーションギャップが大きすぎることが問題になっています。日本社会の場合、不幸なことに過去に「根拠のない成功体験」があるので、そのまま継続とはいきません。根拠がないとは失礼ですが我々の前の団塊の世代は戦争の記憶はあっても当事者ではありません。それでいて日本弱体化の占領政策の影響を最も受けています。そのうえで経済発展の恩恵を最も受けたにもかかわらず後進には失われた30年をもたらすという。その年代の人同士で助け合い年金はいらないのではないかと思うくらい

今の若者と比較してよい思いをした年代なのです。何が言いたいのか。現代人が道を誤ると子や孫が大変苦労するということです。その子や孫が団塊世代とギャップがあって当然です。団塊世代は努力すればする程、還元があった時代でした。しかし今、個人が同じだけ努力しても同様の果実を手にすることはできません。団塊世代が連綿と続く日本という意識を無くす教育をうけ矯正することもなく唯物論的な経済を作ったからです。
海外に行ける人は一部です。若者たちはこの30年間停滞した日本で生きていかなければなりません。この30年、世界は変化しています。多くの国が右肩上がりの成長をしています。資本主義とはそういうものです。資本主義を続けていく以上、急激な右肩上がりも危険ですが緩やかに成長し続ける必要があるのです。
少なくとも日本のように減退するようなことがあってはいけません。皆さんの責任ではありませんが。
社内向け文章です。令和4年8月21日で株式会社サンエイは30歳になりました。そうです。失われた30年の中、サンエイは歩んできたのです。平坦な道で無かったことは想像がつくと思います。90年に半導体の世界シェア50%が日本でダントツでした。GDPはやがてアメリカに届くのでは言われたとき。プラザ合意と日米半導体協定によって日本経済の成長は止まります。現在の半導体シェアは5%です。その中でサンエイは起業して成長してきました。
平成4年8月21日 サンエイが起業した時の創業メンバーは現会長しか残っていません。私が創業者から聞いている話と周囲から聞く客観的事実を合わせてサンエイ創業時の状況を書くと。資金は岩瀨新午先生(当時三洋電機専務取締役)に建て替えていただいたのですが商社として立ち上がったものの売り先と仕入れ先の両方で目論見が外れ大変苦しい船出になってしまいました。
5年後に私が入社し洗浄装置の扱いを始め顧客が増えますが当時は円高により工場の海外進出が進んでいました。技術も人も海外に流出してしまったのです。国内に残った顧客企業の設備投資は新規から維持更新に変わっていきました。投資額も減少します。そんな中、予算の少ないお客様にも充分な結果をもたらせるように平成18年、行田市の賃貸工場で洗浄機の内作を始めます。この工場は鎌田晨平先生が借りていた物件の半分を使わせていただいたものです。鎌田晨平先生は、この時私に「あなたの考えは正しい。必ず成功する」と仰ってくださいました。鎌田晨平先生もまた私から見てニューソートの人そのものです。
目的は当時のトレンドであった修理や改造工事を安価に行うことだったのですが結果的に初めから新規装置も内作でき順調に立ち上がりました。統括部長も加わり洗浄機部門は4名で伸びていきます。令和元年、念願の自社工場を取得します。この時、竣工披露会を催しました。あいさつ文を添付しますので社員のかたは読んで下さい。そのような決意で本社寄居工場は立ち上がったのです。
あなたたちは主体的にストーリーを紡いでいく存在なのです。決して今の瞬間だけに生きているわけではありません。創業メンバーの想い。お客様の想い。協力者様の想い。そういったものと結びついているのです。歴史を知って
想いを紡いで新しいサンエイを作っていくのです。
前記事と順番を変えましたが。人生の羅針盤との関係をここから書きます。
扁額と同じくの壁に【社是「感謝の心」「和の心」】の額が掛かっています。
意味についてはホームページの「企業理念」社是の項に書いてありますので
再読してください。
尚、この社是の文字は「岩瀨新午先生」に書いていただいたものです。
ここでは岩瀨新午先生と鎌田晨平先生について説明します。サンエイという小企業ですが支えてくださった多くの人のうちでも、このお二人はセミコンジャパンのような展示会で中心に居られたような方、日本の半導体業界に多大な貢献と影響を与えた方です。そのような方々がサンエイを大切に考えてくださっていて霊界にお帰りになられた今でも見守ってくださっていることを忘れないでください。岩瀨新午先生については創業者も私も、お彼岸は足利市への墓参は欠かしません。
岩瀨新午先生については 「日本半導体歴史館」の黎明期の人々から鎌田晨平先生については長年役員を務められた「SSIS半導体シニア協会」の機関誌2004年ニューズレターから転載させていただきました。

[岩瀨新午先生]
大正7年生まれ昭和20年、東北帝国大学理学部物理学科から電気通信省電気通信研究所入所。(旧日本電信電話公社電気通信研究所/元NTT研究所)昭和25年、日本で最初にゲルマニウム結晶を用いたトランジスタ増幅現象を確認。これはベル研究所からトランジスタの発明が公表されてから1年8ヶ月後という早さで通研でのプロジェクトリーダとしての始めての業績となる。成功のポイントは毎日諦めず、測定を繰り返したことでゲルマニウムと針の接触点に何度も電圧が加えられた結果だった。昭和27年には国産初の合金型トランジスタを開発、翌年にはトランジスタ・ラジオを展示しており、ソニーが工業製品としてトランジスタ・ラジオを販売する2年前のことである。ニューソートです。
昭和32年、三洋電機半導体研究所長就任昭和61年三洋電機代表取締役専務半導体事業本部長就任し平成2年から平成7年まで三洋電機顧問。三洋の半導体の歴史そのものです。

[鎌田晨平先生]
昭和11年生まれ農業高校にて通信教育で無線を学ぶ。19歳で上京、東海高等通信工学校で学ぶ。夜は警備員のバイトし生活費も学費も捻出。研究生名目で約3年間、東京工業大学で電子回路を学ぶ。警備員のバイトは継続。大学時代、國洋電機工業の社員教育の講義を依頼された縁で昭和36年、國洋電機工業に入社(この時サンエイ創業者と同期で入社)半導体黎明期、米国製LSI自動試験機の開発で昭和44年タケダ理研にスカウト移籍、創業者武田郁夫氏の熱意により米国出張後プロジェクトの技術者たちと若い情熱によって「世界一」のLSI試験装置の開発が目指す。昭和50年、石油危機による経済不況で富士通がタケダ理研に資本参加。昭和52年、速度100MHz、384ピン対応の超LSIテスタ完成。40MHzメモリーテスタと256ピンのロジック市場向けLSIテスタが米国で大ヒットし昭和60年、アドバンテスト(旧タケダ理研)は世界トップシャアを得る。現在に通ずるテスタのトップメーカーの礎は鎌田晨平先生の存在そのもの。「寝ずに仕事をするのは苦ではない」そのニューソート人生。80歳を超えて夏も冬も屋外の倉庫で排ガスの浄化装置の開発に熱中する姿(真の生涯現役)を最期まで見届けた私。真に尊敬に値する人でした。
こういった方々の他にも、サンエイを心から応援してくださり。今は霊界に旅立たれた方がいらっしゃいます。私はいつも感謝を忘れないことと同時に心の中でお誓い申し上げています。見守っていていただいている皆様に恥じない会社になりますと。サンエイの社員の皆さんも、そのことを忘れないようにしてください。
His master’s voice =Nipper= 2
2021年12月08日
おかえりなさい。

2021年12月8日は巷では大東亜開戦80年ということで話題ですが我が社にはNipperが来た日です。
ビクターオンラインストア https://victor-store.jp/ で限定版Nipperを大人買いしました。
しっかり梱包されたNipper君。会社の玄関では寂し気なので明るいところに置きました。
100体限定品 シリアルナンバーは045/100でした。
いつから販売しているのかはわかりませんが、まだ50体は買えるのですね。個人的に高価なものですがスワロフスキーのNipper君は50万円以上のプライスですから大きさからいうとお買い得かもしれません。
前記事
https://www.tdd-sanei.com/blog/his-masters-voice-%ef%bc%9dnipper%ef%bc%9d/
にもあるように、我が社の建物はJVCケンウッド様から譲渡されたものです。だからある意味『Nipper君おかえりなさい』なのです。


私たちには懐かしい昭和の夢や希望にあふれていた時代の一つの象徴です。物質的に恵まれているはずの今なぜ幸福感が乏しいのでしょうか。
80年前の今日対米戦争が始まり日本の歴史を振り返ると幸せって何だろうと考えてしまいます。JVC(日本ビクター)様が謳う「時代をつくるブランドである」「音楽で幸せにすることを私達の使命としてチャレンジを続けていく」という精神が現代の日本人に感じられないのは私だけでしょうか。
「時代を作る」とか「チャレンジ」とかがなんとなくスローガンとして言いにくい時代。その原因は多くの人に自信がないのです。自信を持つことに自信がないのです。
「昔は」というフレーズは使いたくないのですが昔は根拠のない自信があったのです。やれるという感じ、失敗してもいいからやってみようというチャレンジ精神。いつの間にか失敗が許されない不寛容な社会になったのかもしれません。大企業も失敗してもよいから開発優先という時代ではないようです。

確実に利益を上げられることが重要視されるようになった気がします。確かに人が悲しむような失敗はいけないと思います。しかし前向きに将来の糧になるような失敗なら我が社では歓迎します。特に若い人は失敗を恐れずにチャレンジしてほしいです。未来は作るものですから待っていて誰かほかの人に期待しても何も起こりはしません。Nipperも生まれて100年以上愛され続けるなんて思ってもいなかったでしょう。私たちも人の心に残るモノづくりがしたいものです。個人に与えられた時間は有限でも正しい「理念」は無限に継承されると信じています。理念のあるモノづくりをしなくてはいけません。
安倍総理辞任に想う
2020年08月29日
昨日、安倍晋三総理が辞任の意を表明されました。いくつかの点で大変ショックでした。第一に潰瘍性大腸炎という難病を持ちながら総理大臣という要職を続けられたという点。第2次安倍政権発足直後、2つの難病を持つことになった私。難病の定義は「原因不明」「完治療法がない」「進行性である」こと、社会的な死をイメージしてしまう病気を持ちながら総理大臣の職務にあたる姿に励まされてきました。総理と私の立場では相当の乖離がありますが私の一つの希望であったことは確かです。その総理が任期を残して病を理由に自らの判断でお辞めになる。命に係わる難病2個持ちの私が医師に「あと10年は働かせてください」とお願いし、同様に毎日神仏に祈っても避けられない宿命の訪れを感じないわけにはいきませんでした。自由民主党の後任はいずれ決まるのでしょうが、私の後任はどうなるのでしょう。考えてしまいます。
次に自民党の総理候補についてです。明治維新の影響で明治政府の初代伊藤博文から7代目まで(同じく伊藤博文)の総理は旧長州藩、旧薩摩藩が交互に勤めたのは周知のとおりです。また、最近安倍総理が更新した総理の在任期間の上位4人はすべて旧長州藩(山口県)出身者です。当然、総理大臣在任期間の県別合計では圧倒的に山口県、2位の群馬県から6位の広島までの在任期間をすべて足してようやく山口一県に並ぶ程度です。(令和2年8月)

維新が何故起きたのかは別記事に書きましたが、「日本を取り戻す」と宣言して発足した安倍政権は日本をどの程度取り戻したでしょうか、もともと安倍総理は裏方が向いていらしたのかもしれません。私には朋友の故中川昭一先生との約束を一生懸命自分なりに果たそうとされていたように見えました。「日本をたのんだぞ」の声に応えようと頑張りましたね。安倍総理は元々穏健派です。マスコミや世間がタカ派(右派)、中には極右などと言っていますがとんでもありません、逆に小泉路線を引きずった解放協調政策でした。靖国参拝も1回、拉致問題も北方領土問題も尽力に見合う成果は上がりませんでした。(効果はあったはず)
これら施策の実行には、もの言う政治家、中川昭一のような人物が必要なのです。安倍晋三総理は性格が優しすぎます。やさしさと弱さの境界は曖昧です。中川昭一先生を失ったことは大きいしいしもう戻ってきません。今後の日本の国益に適う先生のような物言えるリーダーが生まれることを祈ります。
明治維新は「幕府にはもう国を一つにまとめる力がない。国を強くするには一つにまとめるのだ。」という運動でした。結果、薩長をリーダーとして一つに纏まる国家づくりに一旦は成功しました。しかし日清日露大東亜を経て解体されました。日本は精神が分断されて人心を纏めることができなくなりました。外国勢力とそれに乗った敗戦利得者が作った分断社会。明治維新の志士、薩長の為政者が目指した日本では既になくなったのです。山口県出身の吉田松陰先生の志を継ぐ安倍晋三総理さえそうでしたので今後の日本の政治に期待できないのは私だけではないでしょう。私の子供、未来を担う青年に私たちは何を渡せるのか、生き残るためなら強いものに跪くような国にはなってほしくありません私たち大人が、そんな未来に道を開いてしまってはいけないのです。
正しいことを正しい。誤ったことを違うと言えない社会が健全であるはずがありません。日本人はたとえ事実は違っていても謝り続けろなどという理不尽な事にこれ以上、子孫を巻き込んではいけない。ましてや歴史や価値観、文化の違う国の支配を受けるような状況は避けなければなりません。次世代のリーダーには先人の目指した正しい理念に基づく正しい施策を実行できる人物を望みます。
最後に安倍総理 今後の政治活動にも期待しています。お身体をいたわりながら少しでも長く国家国民のためにご尽力頂きますようお願い申し上げます。ありがとうございました。
His master’s voice =Nipper=
2020年03月29日
フジテレビのワイドナショーのセットに ニッパーが置かれています。私が子供の頃、昭和40年代は家電は街の電気屋さんで買う時代。多くの電気屋さんのショールームにビクターのマスコット、ニッパーの姿を見かけたものです。ああ懐かしき昭和。
社員の皆は当然理解していると思いますが、弊社は 日本ビクター様と御縁があります。日本ビクターは現在、株式会社JVCケンウッドとなっていて我々は工場を譲り受けたのです。神棚にニッパーの枡が祀ってあることを知っていますか。お祝い物の枡2つ、益々(ますます)商売繁盛という意味でJVCケンウッド様より頂きました。
ニッパーの物語知っていますか。それを知らない、知らなくても済ませられるというここをが私には少し寂しく思います。JVC(日本ビクター)様のホームページにもありますがより詳しく解説しますから良く読んでください。

"His Master’s voice"(彼の主人の声)の元は 1899年2月11日に商標登録された
"Dog looking at and listening to a Phonograph"(蓄音機を見て聴いている犬)です。
少し切ないお話です。
1884年にイギリスのブリストルで生まれた仔犬は人の足を噛むので「Nipper」と名付けられました。
(工具のニッパーと同じ意)犬種はフォックス・テリア系の雑種といわれています。
初めの飼い主の風景画家 Mark Barraud(マークバロー)はニッパーが3才の時に亡くなり
弟の画家 Francis Barraud(フランシスバロー)に引き取られました。
フランシスは家にあった蓄音機でニッパーに亡き兄マークの声を聞かせます。小首をかしげて不思議そうにラッパを見つめるニッパーの姿を描きました。
ニッパーの死後(11才でした)3年目に蓄音機メーカーEdison-Bell Company(ベル社)の蓄音機を聴いている
"Dog looking at and listeninga Phonograph"(蓄音機を見て聴いている犬)として描き商標登録し同社に売り込もうとするも拒否されました。後にGramophone Company(グラモフォン社)でWilliam Owen(ウィリアムオーエン)から絵の蓄音機をベル社からグラモフォンに描きかえれば絵を買い取るといわれ、タイトルを"His Master’s voice"(彼の主人の声)とした絵が今に伝わっているのです。
変遷 → グラモフォン・カンパニー(レコード会社)1899年商標登録
→ ベルリーナ・グラモフォン社(親会社)1900年広告に使われる1910年最終登録
→ "His Master’s voice"の略 HMVという名のグラモフォン社小売部門設立
→ グラモフォン社→米ビクタートーキングマシン社設立 1901年
→ RCA社がビクタートーキングマシン社を吸収合併 1929年
→ 日本法人 日本ビクター蓄音器株式会社 設立 1927年 のちに親会社がRCAに
→ JVC・ケンウッド・ホールディングス株式会社を設立 2008年
→ 株式会社JVCケンウッドとなる 2011年
ニッパーの絵の商標権や会社の変遷は、この項では重要ではありません。
元の円筒型蓄音器は録音も再生もできるのでニッパーは亡兄の声を聴けたのですが
描き直された円盤式蓄音器は再生専用、商標登録用の絵です。しかしそれも問題ではありません。
亡き飼い主の声を小首をかしげて聴いて不思議そうにしている姿。円筒式蓄音機の白黒の絵。描いた人の心理も反映しているのでしょうが このニッパーのどこか悲しげな表情が、なんともいえず心に響きます。そこから何を感じるか。135年近く前に生まれた一匹の犬。その姿を大切にしてきた人々。長い歴史との縁。それらを我々がどう感じるかということが大切なのです。

1927年設立の日本ビクター蓄音器株式会社は1939年に日本初のテレビジョン受像機を完成させ今でも自ら
「時代をつくる」ブランドです。と謳っています。
ホームページには 『私達は、夢や感動を創造し、有機的な人との繋がりによって、人々を音楽で幸せにすることを私達の使命として、また経営理念として常に念頭に置きながら、従業員一丸となり努力とチャレンジを続けています。』とあります。
私たち株式会社サンエイも規模は大きく違いますが ご縁のある者として それに学び恥じぬような仕事をしていかなければならないと思います。
インテグラル型ものづくりの終焉?
2019年07月27日
世の中の会社や個々の仕事全てにアーキテクチャが存在します。この言葉自体は元々建築用語ですが、我々の業界では『設計概念』として捉えられています。世の中の会社や個々の仕事全てと書いたのは私の主観、誰もそんなことは考えていないと思います。しかしこのアーキテクチャは『理念』として全てのものづくりの中に魂として入っているものと私は信じています。
さてアーキテクチャの次はものづくりの手法としてのインテグラルとモジュラーです。
インテグラル(すりあわせ型)モジュラー(組み合わせ型)といわれインテグラルはクローズ(囲い込み)が主体、モジュラーはオープンクローズの双方が存在すると考えられています。あらゆる業界を包括して書いているので、各々の業界で協会や分類は異なると思いますが、私たちの半導体や電子モジュールの業界でいうと割りとはっきりと別れているのです。
はじめに理念の話しをしてしまったのですが『世の中にこう言うものを提案したい』『こんなものがあったらいいな』『このほうが便利なのでは』という、こんなものが全部理念、即ちアーキテクチャなのです。だから我が社特有のアーキテクトが存在し全ての形あるものはその結果生まれたものなのです。
製造方法として日本は長らくインテグラル型のものづくりをしてきました。物と物とをすり合わせて形にしていく。笑い話ではなく半導体の基板やデバイスの製作工程で、『味付け』なんていう言葉が出てきます。食べたことあるの?という意味ではありません。ものづくりで味を出すというわけです。自分の工程だけではなく他の工程と連携してすり合わせて自社の味を出す。こういうものづくりが日本のものづくりのモデル(半導体だけではなく)として得意分野で、自動車業界などもその分野です。こちらも『乗り味』なんて言ってしまったりするのです。
ところが、世界のものづくりの主流はモジュラー型に移っていたわけです。インテグラルがすり合わせが必要なためにどうしてもグループとしてクローズ(囲い込み)になりがちで変更や改善の意思決定や実行に時間がかかるのに対し、モジュール型ものづくりは得意分野の部品や製品を主にオープンな環境から選択して組み合わせて作っていくものですから、製品を短い開発時間で生産することが容易。そのために必要なのはアイデアと決断力です。
以前も書きましたが、インテグラル日本半導体がモジュラー韓国・台湾・中国(これから)に次々に破れていったのはこういう理由もひとつあります。職人技のすり合わせの必要ないDRAMやNANDなどのメモリーデバイスは大金を払って装置を揃えれば物ができる。日本は何をやっているか。利益の少ないマニアックな部品をインテグラル方式で作っているわけです。同じ装置でも違う使い方をして。だからリストラで社員が退職してしまうといきなり歩留まりが落ちるなどということも起きます。
モジュラー型はオープン/クローズ両方の形で社外(グループ)から社内(グループ)を問わず自由な発想でものづくりができるとされている一方、日本人の得意なインテグラル型はそもそもクローズ(グループ内によるすりあわせ)の環境でしか成り立たないという考え方が主流だと思われています。でも今、弊社が行っているリノベーションの現場では、お金がないもので、大きい工事を担当していただくゼネコンさんと、大工・電気・水道に関しては旧知の地場業者さんを弊社が直接お願いして共同で工事をしてもらっています。ゼネコンさんは当然利益が減っている(大幅に)地場業者さんとゼネコンさんが連れてこられる業者さんの間で立場が違う。でも、これですんなりうまくいっているんです。お互いお客様(弊社)の利益という点で一致してすり合わせて仕事をしてくれています。むしろオーバーラップしあっていい提案をしてくれます。
この形こそが、弊社トリオデザイン事業部 7つの基本方針なのです。
これは地方の小さな建設現場の話ですけど、経済産業省さん。日本工業界が、これから目指す形はどんなものなんだか聞いてみたいものです。それ考えるのが国家公務員の役目ですよね。将来、若者が日本から脱出していかなければ生きていけない社会を作ってしまったら、それは我々も含めて罪です。
『味』なんてものに価値を見出さない人を相手にモジュール型に転身してもよし、存在しないといわれるオープンインテグラルに挑戦するもよし(あると私は思っている)、私の持論ではどっちにしろ先ず ひとの道(道徳)あってのアーキテクチャが基になければならない。そうじゃないと『味』を不要と言い切る社会にはインテグラルが残る余地がなくなってしまうから、全てAIでよくなってしまう。日本人が『味』の感覚をなくしたとき、インテグラル型ものづくりが不要となって日本産というものの価値がなくなります。
新聞に移転記事が掲載されました。
2019年06月15日
6月14日 日刊工業新聞に弊社移転の記事が掲載されました。報道の公正性から記事の事前チェックができないため、若干現実と違っているところもあります。総投資額は1億円を軽く超えます。
記事が掲載されたのは、たまたま以前から決まってた弊社の全体会議の日でした。全体といっても15人ですから、全員心を一つにして仕事に臨みたい思って私が話をするのですが、言いたい事、解って欲しいことが沢山ありすぎ、とても2~3時間では終わりません。しかし人間の集中力はそんなに続きません。印刷物を渡しても後々振り返って理解しようなどという殊勝な考えの社員はいないんです。
ただし、この日はとても大切なお話をしましたので、次のブログで内容を記します。幣社員におかれましは、今一度記事を読み ①なぜこのタイミングで移転なのか ②誰のための移転なのか ③どのような心持で今後取り組まなければならないのか等、真剣に考察することを命じます。すべては各々のレベルで「自己実現=社会貢献」でなければなりません。それが自らの人生の目的そのものだということを理解する機会としていたきたいと願っております。そうでなければ、私に引き寄せられて集った意味がないからです。
全体会議テーマ 人生の仕組み(1)
2019年06月15日
今回の全体会議でこれらの話をしようと思ったきっかけは、すべての社員に生まれ変わるほどの変化が必要だと感じたこと、それほど私の経営理念と現実が乖離しているのです。
『人生の仕組みを知らない』又は『人生について考えない』人たちが多いのです。せっかく私の下に集ったのですから、思想や理念を理解していただかなければなりません。
また一部エミールクーエの法則の話をしたら素直に実践し成果をあげてくれた人が出たことも
私がこのような話をする後押しとなりました。
そんな折、サミュエルスマイルズのSelf-Help 完全訳が出版されました。
これは『西国立志編』として明治4 (1871) に中村正直翻訳し刊行され福沢諭吉の学問のすすめとともに2大ベストセラーになったものです。『自助論』とも訳され近代的人間の確立を目指して刊行したとされます。この本は重版(増刷)を繰り返し今までも多くの人に読まれてきましたが今年完全訳として改めて出版されたのです。
Self-Helpの初版は1859年ですがこの自助という言葉を筆者の意図と違って受け取る人が多かったのでスマイルズは1866年に若干の書き換えを行っています。今回、完全訳を出したPHP研究所出版のこの本の中で訳者の前書きの中にある言葉が、私の理解と同じであったので、本を社員に紹介しました。(前訳の部分と本文の極一部)本文は過去(18-19世紀)の人々の苦労と成果の話でこれは自助論の「天は自らを助くる者を助く」の事実の列挙です。
私が社員に伝えたかったのは訳者が辿り着いた「天(神)は自ら努力するものを助く」という言葉そのものです。私は常々「棚から牡丹餅」という言葉は自序論と同じ誤解をされていると思っていました。「自助論」=「棚から牡丹餅」ならば「天(神)は自ら努力するものを助く」= 「自ら努力するものには天(神)から牡丹餅が与えられる」というわけです。ただ歩き回っていれば誰にでも牡丹餅が落ちてくるものではないこと、努力の仕方を間違えると天の助けが得られないことを諭したかったのです。
マイルズのSelf-Helpに登場する人物は皆、努力、熱意が途方もなくとてもまねできない、あるいは本当にそこまで正しい心持で努力すれば結果は出るでしょう。ということばかりなので自分と対比するにはハードルが高いです。そこで私は自らの光明思想ベースの持論をほかの方法で説く事にことにしました。
全体会議テーマ 人生の仕組み(2)私の光明思想
2019年06月15日
私は神道系の信仰を持つ母とノンポリ父との間に生まれ、母の影響を強く受けて育ちました。若い頃は気づきませんでしたが、人の親となったのを機に自分の中に母が植えつけた『光明思想』を強く意識するようになり、その思想をベースに体験や読書から確信した知識を加えた信念を基本に生活し、小企業のトップとして会社や社員を導いています。
光明思想は発祥の地アメリカではニューソートと呼ばれ19世紀に本格的に起こりました。しかし原罪を否定する異端的キリスト教として見られていました。この思想は150年以上前のものであり当時の有名なジョセフマーフィーの「成功の法則」やラルフウォルドートラインの「幸福はあなたの心に」などは現代でも成功哲学・自己啓発本の下本として書き換えられベストセラーになったりしています。しかし150年以上前の焼きなおしや引用本なのです。
簡単に言うことの思想は「ポジティブシンキング」ですが、本を読んだだけで成功するはずはありません。実践が必要です。また、キリスト教からの分派なのですから日本人らしい解釈と行動が必要だと思います。
そう考えたとき、渋沢栄一をはじめとする江戸、明治の偉人はすでにこの思想を実践していたことがわかります。日本人に備わっている道徳と経済の両立、江戸時代には経済というよりよい社会(藩政や石高に資する)を築くことと道徳の向上は必須であるという意識は永く日本人の心根に浸透していたのです。その源流は武士道の基となる朱子学や儒学にあるのか、日本独特の神道系思考にあるのかは別にして兎も角、日本人にはすでにそういう規範があって、今はそれが忘れられているということを知らせたいのです。
神というと知識の浅い人には宗教を感じてしまうでしょうから私はサムシンググレートを使わせてもらっているのですが、これも宗教語なので「全宇宙を作った見えざる力」とでもいいましょうか、でも長いです。ノーベル生理学賞の山中教授が「これは神様にしかできない、と思うことがたくさんある」と発言されているから、そういったものを私も神と言わせてもらいます。皆さんは心の中で別の語に置き換えていただいて結構です。
その考え方(思想)を極簡単にちょっとだけ記すと以下のような言葉に集約されます。
・すべてのものは神によって自分の中に既に与えらている
・宇宙を作った神と力と同じものが自分の中にある
・世の中に偶然はない、すべてが必然である
・広く公益に適い、計らい心なき計画は必ず実現する
・自身をどれだけ生長させられるかが人生のテーマである
・どれだけ人に尽くしたか愛したかが人生の価値である
・潜在意識と宇宙(人類)意識は結びついている
・潜在意識に刻印されたものは宇宙(人類)意識がそれを実現させようと働く
全体会議テーマ 人生の仕組み(3)実例言葉集
2019年06月15日
過去の偉人や先輩の言葉をニューソートであるとないとにかかわらず記します。主にトーマスエジソン・ヘンリーフォード・松下幸之助・中村天風・稲盛和夫氏です。具体的に誰の言葉かは書きませんが私たちの仕事(商売)に直結するものです。それにしても実に多くの偉人が同じ意味のことを言っていることに驚きます。
・私達の最大の弱点は諦めることにある。成功するのに最も確実な方法は常にもう一回だけ試してみることだ。
・成功しない人がいたとしたらそれは考えることと努力すること、この二つをやらないからではないだろうか。
・わたしは、決して失望などしない。どんな失敗も、新たな一歩となるからだ。
・私は一日たりとも、いわゆる労働などしたことがない。何をやっても楽しくてたまらないからだ。
・待っている間もがんばる人にすべてのものはやってくる。
・未来を考えない者に、未来はない。
・どんな仕事でも、それを細かく分けて、ゆっくり取りかかれば、必ずできるようになる。
・信仰心の厚い人に突破できない災難はありえない。全能の神様に不可能はなく、全ての苦難に打ち勝つのだ。
・神が責任をもってくださる限り万事が結局は理想的に処理されると信じます。何を悩むことがありましょう。
・仕事の中に喜びはある。何かを達成したという実感なしに、幸せはありえない。
・傷をつついている暇があったら、つける薬を見つけよ。
・経済的に正しいことは、道徳的にも正しいものだ。
・どんな人間も、自分が思っている以上のことができる。
・努力が効果をあらわすまでには時間がかかる。多くの人はそれまでに飽き、迷い、挫折する。
・成功の秘訣は、何よりもまず、準備すること。
・不潔な工場に善良な職工なし。
・失敗は成長に続く唯一の機会である。失敗を恐れる心の中にこそ、恥辱は住む。
・人との比較で劣っても恥る事はない去年より今年の自分が劣っていたらそれこそ恥ずべきことである。
・志を立てるのに、老いも若きもない。そして志あるところ、老いも若きも道は必ず開けるのである。
・商売とは、感動を与えることである。
・才能なきことを憂うる必要はないが、熱意なきことをおそれなくてはならない。
・知識なり才能なりは必ずしも最高でなくてもいい、しかし熱意だけは最高でなくてはならない。
・売る前のお世辞より売った後の奉仕、これこそ永久の客を作る。
・無理に売るな。客の好むものも売るな。客のためになるものを売れ。
・世の為、人の為になり、ひいては自分の為になるということをやったら、必ず成就します。
・石の上にも三年という。しかし、三年を一年で習得する努力を怠ってはならない。
・普通の努力では、チャンスをチャンスと見極められない。熱心の上に熱心であることが見極める眼を開く。
・知恵のポンプは汲めば汲むほど湧いてくるんや。
・熱心は、人間に与えられた大事な宝である。そして、この宝は、誰にでも与えられているのである。
・世の中に失敗というものはない。チャレンジしているうちは失敗はない。あきらめた時が失敗である。
・今日の成果は過去の努力の結果であり、未来はこれからの努力で決まる。
・常に明るさを失わず努力する人には、神はちゃんと未来を準備してくれます。
・感謝の心が幸福の呼び水なら、素直な心は進歩の親であるかもしれません。
・経営とは、人として正しい生き方を貫くことだ。
・集団、それはリーダーの人間性を映す鏡なのです。
・不運なら、運不運を忘れるほど仕事に熱中してみよ。
・才能を自分のものにするのは、神の摂理に反する。与えられた才能は社会の為に使わなければならない。
・誰もが宇宙の為、地球の為に必要だから生れてきた。従って世の為、人の為に尽くすのが人生の目的なんだ。
・日本の明治維新でも、またどんな革命でもそうですが、情熱だけが新しい時代を開く事が出来るのです。
・新市場を創造するのは才覚にあふれた経営者だが、人格を兼ね備えたリーダーでないと企業は統治できない。
・動機善なりや、私心なかりしか。
・憎い人があろうはずがない。あなた方が何か憎らしいことを考えているだけだ。
・偉くなる人は、結局、偉くなるべき資格をもっている。その資格とは
「誰にも言われなくても、日々毎日、実際に努力している」ことなんです。
・人間として生きていくのに一番大切なのは、頭の良し悪しではなく、心の良し悪しだ。
・幸福も健康も成功も、ほかにあるんじゃないですぜ。あなた方自身のなかにあるんだぜ。
・どんな場合にも「こまった」「弱った」「情けない」「腹がたつ」「助けてくれ」なんていう
消極的な言葉を、絶対に口にしないことです。
・言葉には人生を左右する力があるんです。この自覚こそが人生を勝利にみちびく、最良の武器なんですよ。
・たとえ身に病があっても、心まで病ますまい。たとえ運命に非なるものがあっても、心まで悩ますまい。
・幸福や幸運は、積極的な心もちの人が好きなんですよ。
・私が事業家にいいたいのは、ここだ。宇宙の心理に背いた、自分本位の欲望でもってしようとしたことは
そう滅多に成功するものではない。
・事業をしている人、その心に信念があるか。
・人としてこの世に生まれて一番大切なことは、人に好かれる人間になることだよ。
・運命だって、心の力が勝れば、運命は心の支配下になるんです。
・明日に死を迎えるとしても、今日から幸福になって遅くないのです。
・どんな名医や名薬といえども、楽しい、おもしろい、うれしいというものに勝る効果は絶対にない。
--以上--
年始の1泊出張
2019年01月19日

年始のご挨拶と打合せを兼ねて甲信越地方に1泊の出張に行ってきました。1泊7,000円以下でビジネスホテルを探すようにしているのですが、旅行の外国人の多い地方では金額も上がっていますし、予約を取るのが大変難しくなっています。インバウンド政策も結構ですが、日本の零細企業向け出張対策もお願いしたいものです。
今回宿泊させていただいたのは大変立派なホテルだったのですが、フロントで鍵を渡されて部屋に向かうとドアが少し開いていました。(チェーンロックを挟んだ状態になって、閉まらないようになっていた)昔東北地方のあるホテルで、食事をして自分の部屋に帰ったら。部屋番号を間違えた酔っ払いのおじさん(当時は自分が若かったので)が泥酔していて、私が自分の荷物を静かに持って部屋を代えていただいた記憶がよみがえり、フロントに連絡すると先方から部屋を代える申し出により写真のような立派な部屋に代えてえていただきました。すごく安い費用でしたのでこちらがむしろ恐縮でした。ありがとうございました。
全体的に若者が内向きな志向になってきたと同時に、出張のある仕事も敬遠される傾向があるようです。出張も仕事ですから、大変なこともありますけれども、色々なところへいけて、その土地の食事や習慣などに触れるのはとても有意義なことだと私は思います。(弊社は基本的に海外出張が無いので言語の心配も要りませんし)
さあ皆外に出て色々な経験を楽しみましょう、人生には限りがありますからね。苦しいことも楽しまなければもったいない。
セミコンジャパン2018年12月12-14日
2018年12月14日

12月12日セミコンジャパン2018初日でした。弊社ブースにご来場の皆様ありがとうございました。
人出の印象は「例年並みでにぎやかとはいえません」新しい出会いというより、例年ご来場いただくお客様に多くお越しいただきました。ありがとうございます。
今年の展示部ブースは動きのある機器については意図して正面から見えない位置に展示しています。
・トリオデザイン事業部は 薬液供給庫/濃度コントロールユニット/スピンドライヤ
・計測システム開発部からは 管内検査装置/ファンクションテスター
等を 実機展示しています。2日目 3日目に ご来場予定の皆様、弊社ブースに是非お立ち寄りください。よろしくお願い申し上げます。

展示会が終了しました。3日間あっという間です。ご来場いただいた皆様ありがとうございました。
今年も新たな出会いと、懐かしの再会がありました。10年以上ぶりにあった仲間はかなり外観が変わっていましたね。お互い様ですが、我々の商売は展示会の効果が即出るものでもありませんから、この展示会が成功か失敗かはわかりません。でも、お金が続く限り出展したいと思います。
何しろ小社にとっては大変な費用が掛かりますので、成功しないものにお金はかけられないという考えでは出展できませんが、お金に換えられない何かがあるのです。
来場者総数が発表になりました。52,865人 前年比78% 弊社予想に反して大幅減。今年は皆忙しかった?来年は賑やかになるといいですが。
展示会でお会いしましょう
2018年12月08日

半導体業界の展示会『セミコンジャパン』は40年以上の歴史を持ち、日本の半導体需要と生産技術の変化と共に規模が拡大そして縮小しました。
世界各地で行われる中でも日本で行われるこの『セミコンジャパン』かつては出展数、来場者数共にトップであった時期もありましたがセミコン以外の展示会も多く開催されるようになっていますし。半導体も当然投資額の大きい国の展示会が集客も多くなり出展社も移っていきます。ここ最近の展示会は革新技術の発表や展示というより同窓会のような昔の仲間の近況を知る場と化していました。
しかし、失われた20年にも限界が来たのでしょうか、今年はご案内したお客様の多くで展示会に行くという声を聞きました。2000年以降入社のかたにとって なじみの薄い『セミコンジャパン』ですが、一度経験的に行かせてみようかという会社の方針があるのかもしれません。弊社は看板に掲げているように、国内のお客様が活気を取り戻していただける支えとなりたいという想いから起業しておりますので展示会が盛況になることを願っています。多くのかたにブースにお越しいただいて、何かのヒントにしていただければ幸いです。
展示会場でお会いしましょう。 12月12(水)~14(金) ビックサイト東展示棟**Hall3 ブース番号 3212**
自社でものづくりをする悦び
2018年11月18日

小企業のものづくりが若い人に人気が無のです。もったいない。私どものような小さい会社でも世の中に2台と無い製品を常に作り続けています。
文化財には及びませんが恐らく私が社会から引退しても尚、それらの装置はお客様のお役に立ちながら働いてくれるでしょう。それら自らが生み出した製品のフォローをし続けられるなんて魅力的な仕事ではないですか。
責任が重いということが負担に感じてしまう。出来るだけ気楽に働きたい。そういうことなら確かにこの仕事には向かないでしょう。お客様をお助けするには自分にそれ以上の技術と気力が無ければならないですから。
自社でものづくりをする大切さ
2018年11月18日
なぜ自社で装置を作ってサービスをするようになったのかを書いてみたいと思います。
勤めた会社がなくなった直後は、製造子会社も同時に整理されましたので、ものづくりをするとことが出来なくなりました。人づてに、幾つかの会社に製造もサービスもお願いして設計商社として事業を続けてきましたが、お願いした先で、お客様とトラブルになって解決できなかったことがありました。
折衝に何ヶ月も掛けて努めましたが解決せず、ご発注いただいたプロジェクトが中止になるほどのご迷惑をおかけしてしまいました。その折衝の途中で、お客様から「サンエイに発注しているのだから、サンエイが仕様通りの装置を納品してくれれば良いだけのことだ」と言っていただいたにもかかわらず。当時の自分にそこまでの自信と自覚が無く、何年も営業を掛けたにもかかわらず、発注いただいて数ヶ月後に、当方からご辞退するという失態を犯してしまったのです。自分に力が無いと人を救うことは出来ないというより、その資格が無いのだということを痛感しました。
「こういった商売をしています。」というからには、その商売に対してどんな形でも責任を取れるようにしなければならない。当たり前の話ですが、当時の私には対処する方法もチャレンジする力もなかったのです。お客様の力になりますといいつつ大変な迷惑を掛ける。私が最も軽蔑し嫌悪するようなことを私がやっていたのです。色々な協力会社様と共にお客様のために尽くすのも大切ですが、まず自分に力が無くてはならない。会社だけではなく、世の中の全てにいえることです。
私たちの仕事
2018年11月10日

私どもの仕事を簡単に説明すると、半導体や電子部品を作るのにいくつかの薬品を使う工程がります。まず思い浮かぶのは『洗浄』だと思いますが『エッチング』や『剥離』といった加工の手法として液を使うこともあります。
処理の方法も最先端の大きい基板は『枚葉方式』といって1枚1枚 基板毎に洗ったり処理するのが主流です。一方、弊社のようにカセットに収納して複数枚をいっぺんに処理する昔ながらの方法を『バッチ方式』と呼びます。いずれにせよ、薬品と水洗いを繰り返して処理していくわけです。
私どもは、カタログ販売のように決まった形のものをたくさん作って選定いただくのではなく、お客様の安全性や利便性に配慮して装置ごとに専用設計して共に作り上げていく手法を得意としており、それが会社の特徴になっています。
初投稿
2018年10月13日
日付に意味はありませんが、この日を私のブログ投稿の初日といたします。
会社と個人は別物ですが、現在は極小さな企業でありますので私の人間性が会社の活動に少なからず影響を及ぼします。ですから私がこのブログで記していくことが会社を知っていただく一つの材料になろうかと思います。やがていつか後進に会社を託す日が来ます。そのときは、また違った味の会社になって社会に貢献できれば良いのです。その時には、このブログに書いていく私個人の考え方や経験も無視していただいて結構です。但し、創業の理念や心がけについては、それこそ商うものが全く違った会社になったとしてもサンエイの名を継承していく限りは持ち続けていただけなければなりません。創業の理念や心がけとはなんだったのか。忘れかけたときに先人がこんなことを考えていたんだな、と読み返し参考にしていただけるようなブログになれば幸いです。
そしてそれは一企業についてだけでなく、世の中の誰かのヒントやきっかけになることができれば、すばらしいことだと思います。いつまで続けられるかわかりませんが、平坦に自分の思うところの事柄を書いていきます。読んで不快な思いをする方がいらっしゃいましたら当ブログを無視してください。それではよろしくお願いします。
プロフィール
代表取締役社長: 本間 剛1964年12月生まれ
東京電子専門学校
メディカルエレクトロニクス科卒
趣味: 読書/仕事
座右の銘: 吾以外皆吾師カテゴリー
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