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f)日清日露大東亜の記事一覧

日清日露大東亜(5)日露戦争序

2020年09月22日

『よもの海 みなはらからと 思ふ世に など波風の たちさわぐらむ』(明治天皇御製 明治37年)

古事記と和歌が理解できないと日本人になれないといわれます。御製とは天皇が詠んだ和歌や詩文のことです。

明治天皇の御製は九万三千首を超えています。

明治政府を簡単に言えば1867年の王政復古によってできた日本の政府ですが「薩長政府」をいわれるように維新を遂げた人たちによる政府です。ここから立憲政治へと変えていきますがそれを進めるのも当然の成り行きから「薩長」中心でした。あまり薩長が目立ちすぎても国民から不満が出るので内閣制導入も気を使ったと思いますが結果的に今でも長州の総理大臣が一番多いのです。

 

日本帝国憲法発布により憲法の条文の下で天皇は陸海軍を統帥する権限を持つことになります。

明治天皇の御心を私ごときが量るのは畏れ多いことですが近代国家になろうとしていた日本の軍隊は皇軍(天皇の軍隊)でした。新政府が初めに行ったのは、天皇を中心とする政権体制を固める事であったのです。

 

天皇の生まれ年を西暦で書くのは憚れますが分かりやすいので敢えて記すと1852年11月3日。11月3日が明治節を経て「文化の日」と呼ばれるのは明治天皇が和歌を始め文化に造詣が深かったことによります

1868年(明治元年)は御年16歳です。

1881年 ハワイカラカウア王訪問時 陛下は29歳。日本国も未熟でした。

1894年 日清戦争42歳。

1904年 日露戦争52歳。列強には遥か及びませんがようやく先進国家に近づいた時期でした。

 

ハワイの占領を傍観するしかなかったこと。欧米列強が亜細亜で我が物顔のふるまいを見せていたこと。これらを明治天皇はどんなお気持ちでみて居られたのかと思います。

そこで冒頭の有名な御製です。日露戦争開戦が決定した直後に詠まれたという説がありますが正確には わかっていません。ただし、明治天皇記にかかれた御前会議前後の天皇のご様子から決定後に詠まれたものと私は思います。意味は「四海(日本の周り近隣諸国)は皆同胞だと思うのに何故ゆえ波風が騒ぎ立つのであろうか」ということです。30余年後、昭和天皇が大東亜戦争開戦の御前会議でこの歌を2度引用されます。同じお気持ちだったということだと理解します。

日露戦争を語る前に明治天皇の開戦の詔勅(開戦に当たってのお気持ちを表した文)を現代語訳版で記します。偽らざる天皇のお気持ちが書いてあると思います。開戦の詔勅、終戦の詔勅をよく読むことが日本人としてその戦争を理解することにつながるのです。疑う人もいるかもしれませんが私は真の御心だと信じます。明治天皇や昭和天皇を好戦的な人物とみるような考えを私は強く否定します。世界一平和を愛する天皇でさえ止められないうねりが、この世の中には起こるということです。

 

-----日露戦争開戦の詔勅現代語訳-----国立公文書館 アジア歴史資料センター 引用)

「天の助けによって先祖代々皇位を継承してきた家系に属する大日本国の皇帝は、忠実にして勇敢な汝ら国民に以下のことを知らせる。

 朕はこの文書で、ロシアに対する戦争を行うことを布告する。朕の陸軍と海軍は、ぜひとも全力をつくしてロシアと戦ってほしい。また朕のすべての部下らは、それぞれの職務や権限に応じて国家の目的が達成されるように努力してほしい。国際的な条約や規範の範囲で、あらゆる手段をつくして誤ちのないように心がけよ。

朕の考えは、文明を平和的なやりかたで発展させ、諸外国との友好関係を促進することによって、アジアの安定を永遠に維持し、また、各国の権利や利益を損なわないようにしながら、末永く日本帝国の将来の安全が保障されるような状況を確立することにある。これは朕が他国と交渉する際に最も重視していることがらで、常にこうした考えに違反しないよう心がけてきた。朕の部下らも、こうした朕の意思に従ってさまざまな事柄を処理してきたので、外国との関係は年がたつにつれてますます厚い親交を結ぶに至っている。今、不幸なことにロシアと戦う事になったが、これは決して朕の意志ではない。

 日本帝国が韓国の保全を重視してきたのは、昨日今日の話ではない。我が国と韓国は何世代にもわたって関わりをもっていたというだけでなく、韓国の存亡は日本帝国の安全保障に直接関係するからでもある。ところが、ロシアは、清国と締結した条約や諸外国に対して何度も行ってきた宣言に反して、今だに満州を占拠しており、満州におけるロシアの権力を着実に強化し、最終的にはこの土地を領有しようとしている。

 仮に満州がロシア領になってしまえば、我が国が韓国の保全を支援したとしても意味がなくなるばかりか、東アジアにおける平和はそもそも期待できなくなってしまう。従って、朕はこうした事態に際して、何とか妥協しながら時勢のなりゆきを解決し、平和を末永く維持したいとの決意から、部下をおくってロシアと協議させ、半年の間くりかえし交渉を重ねてきた。ところが、ロシアの交渉の態度には譲り合いの精神はまったくなかった。

 ただいたずらに時間を空費して問題の解決を先延ばしにし、表で平和を唱えながら、陰では陸海の軍備を増強して、我が国を屈服させようとした。そもそもロシアには、始めから平和を愛する誠意が少しもみられない。ロシアはこの時点になっても日本帝国の提案に応じず、韓国の安全は今まさに危険にさらされ、日本帝国の国益は脅かされようとしている。

 事態は、既にここまで悪化しているのである。日本帝国は平和的な交渉によって将来の安全保障を得ようしたが、今となっては軍事によってこれを確保するしかない。朕は、汝ら国民が忠実にして勇敢であることを頼みとして、速やかに永久的な平和を回復し、日本帝国の栄光を確たるものとすることを期待する。」
≪御名御璽≫

 

御名御璽とは天皇のお名前のと押印のある正式な文書であることです。

皆さんは100年以上前の日露戦争開戦の詔勅を読んでどう感じましたか。日本を取り巻く環境が今も当時もそれほど変わっていないと思いませんでしたか。今世界は帝国主義の時代ではありません。しかし戦争も侵略もなくなっていません。(表立ってドンパチやらないだけです)日本は日米同盟がありアメリカに守ってもらうことになっていますが、日本のためにアメリカの若者の血が流れることをその家族が許すでしょうか。大国の思惑で小国が翻弄されるということは今も昔も変わっていません。

戦うくらいなら占領されることを選ぶという人もいます。そういう人だけが占領されてくれれば良いのですがそうもいきません。温故知新、歴史を知って未来に備えましょう。私たちの日本国と子孫のために。

 

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日清日露大東亜(番外太平洋)ハワイ申し訳ない。

2020年08月29日

アヘン戦争(1840年)アロー戦争(1856年)日清戦争(1894年)と清が戦っていた頃 太平洋で起こっていた事。

 

ハワイやグアムは何故アメリカなのでしょうか。アングロサクソンの強欲には重ね重ね恐れ入ります。ハワイにカメハメハ大王がいらっしゃったことを知らない人はいないと思いますが、大王はアメリカ人じゃありません。周辺の諸島を統一して1810年にハワイ王国を建国した元ハワイ島の酋長です。1800年代初めハワイにはキリスト教布教と捕鯨目的で列強が出入りするようになります。

白人はハワイの内政に干渉し選挙権を得て1850年頃には土地の私有化が合法になり全土の75%が白人の土地になりました。たった12年の間に。(いま日本も危ないですが)ようやくハワイの王がこの問題に気付いたのですが時遅し。1881年当時のカラカウア王は通訳一人だけを伴い人目を盗んで事前連絡なく明治天皇に拝謁します。目的は同じ亜細亜人として一致して欧米列強に対峙しようという提案をするためです。

 

当時日本はアジアで唯一列強に対抗できる準備をしていた国。切実な王は姪であり皇位の資格があるカイウラニ王女を皇族に嫁がせてでも。と願い出ます。

日本の返事は、明治維新から15年そこそこの日本には列強を敵にハワイを助ける力はないというつれないものでした。ここでも、自らを頼ってきた亜細亜人に無力だった若き明治天皇の御心が偲ばれます。

 

「さようならうるわしき日本」と日記に残して王は帰国。1887年、白人がカラカウア王宮を占拠してクーデターを起こし王は権力を失います。3割の白人のみに選挙権が与えられたハワイ。アメリカに送られた王は日本訪問から10年後に亡くなります。

 

1891年8代目リリウオカラニリ女王(涙ものの歌詞アロハオエを作られたかた)が即位しますが彼女がハワイ最後の王となります。(歌詞を読んでみてください)

 

亜細亜人と白人との摩擦によりアメリカは戦艦ボストンを派遣しホノルルは占領されました。この横暴を聞いた日本はハワイの日系人保護のため浪速、金剛の2隻の巡洋艦を真珠湾に送りボストンを挟むように投錨し抗議の意を示しました。

力をつけた軍事力でしたが遅かったのです。1994年アメリカの後ろ盾で臨時政府が独立を宣言しハワイ王国は84年の歴史を閉じます。

 

1年後、浪速は再びホノルルに寄港。新政府は浪速に

1周年の祝砲を撃つことを要請しますが東郷平八郎艦長は「その理由を認めず」として断りました。

明治の軍人として最低限の矜持を示したのです。

もちろん人それぞれ自由ですが私は米領ハワイやグアムで無邪気にはしゃぐ気にはなりません。列強に翻弄された亜細亜を想うとき、異民族の前に滅んだ国家を想うとき取り返しのつかない悲しい気持ちになります。

 

日本はまだ滅んでいませんが内部から分断しています。日本の保守の政治家からも女系天皇容認の発言が出て参ります。日本の皇統断絶(女系天皇が誕生)の時、皇室も日本人も日本列島も残るかもしれませんが、それはすでに日本ではありません。日本国は、大和の国は滅亡したのです。

 

観光で踊られるフラダンスの映像を見るとき国を失って形だけが残る虚しさ感じる人は少ないでしょう。しかし私は感じてしまうのです。おそらく私が生きているうちは大丈夫だと信じますが、そんな日本は見たくないのです。残った人たちは日本人の矜持を取り戻してほしいです。竹槍で最後の一人になっても抵抗するなんてナンセンスではありますが、気持ちだけでも持っていただきたいと思います。自分の家族、親族、地域社会を守ることが国家を護ということとつながるのです。

 

日本の皇統は神から続いています。神話を知らずして日本人を騙るなかれ。神話を忘れてはいけません。

 

 

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日清日露大東亜(4)三国干渉 臥薪嘗胆

2020年08月29日

一万人を超える死者を出し日清戦争に勝利した日本。相手にも犠牲があることを忘れてはなりませんが帝国主義のこの時代、戦勝国は敗戦国に対して賠償と戦果に見合う要求ができたのです。

日清戦争の講和会議は山口県下関市(安倍総理の選挙区ですね)の料亭で行われます。この会議で結ばれた馬関(下関の旧称)条約が現代でいう「下関条約」です。全権、伊藤博文(総理)陸奥宗光(外相)清側は李鴻章(総督)李警報(大臣)との間で結ばれました。

骨子は主に以下の4点でした。

・朝鮮の独立を認める事

・遼東半島と台湾及び澎湖諸島の割譲

・賠償金2億テールの支払い

・日新通商航海条約の締結に伴う租界地での治外法権の承認

 

亜細亜の大国清が破れたことで清を見る世界の目が変わっていきます。列強が清への干渉を更に強くしていきます。特にロシアは日本の進出を好ましく思いません。下関条約が結ばれてすぐ(6日後)ドイツやフランスと共に日本にロシアにとっての要衝でもある遼東半島を返還するように迫ります。戦争も理不尽ですが当時は帝国主義時代力のあるものが弱いものをねじ伏せる時代だったのです。新興国の日本はこれらの大国に抵抗する力がまだなかったため理不尽な要求を跳ね返すことができませんでした。遼東半島は清に返還され後にロシアが租借することになり他の列強も弱体化した清国内に次々に租借地を拡大していきます。大国に翻弄される清。アングロサクソンの露骨さには恐れ入ります。

 

日本は第一義の目的である朝鮮半島の独立は果たしました。(勝手にやったことではあるが一万人の犠牲をだして独立させる必要があったのか少なくとも当時の人はそう信じたのでしょう)

 

この列強の状況を飲まざるを得なかったのが三国干渉と呼ばれる歴史的屈辱ですが、御前会議での明治天皇のお気持ちはどういうものだったのでしょうか。力のあるものに屈する時代が令和の時代にも繰り替えされようとしていると感じるのは私だけでしょうか。これを機に日本国民の中には怒りと同時に「臥薪嘗胆」が合言葉になります。苦境に耐え忍び力を蓄えるということです。「今に見ておれ」という気持ちが国民全体にいきわたり、政府は更なる軍備増強を進めます。

ちなみに下関条約で台湾は文字通り日本の植民地になります。朝鮮は併合ですので植民地とは少し違います。日本は台湾ではじめは軍政を敷き抵抗を鎮圧し、その後民政に切り替えます。列強の植民地「支配」とは違う統治をしていきます。民政局長 後藤新平のことは自分で調べてください。嘉南大圳の八田 與一もお忘れなく。

 

一万人の犠牲を出して朝鮮を独立させた日本でしたが彼らには「事大主義」という考え方があり、それが陸続きの大国間で生きていく術だったのかもしれませんが常に強いものに迎合するのです。三国干渉に屈した日本を見て朝鮮王朝はロシアと近づきます。王朝は親ロシア、親日派は排除されるようになります。さあ、日本はまた勝手に朝鮮をめぐって日露戦争への道を歩んでしまうのでした。

 

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日清日露大東亜(3)日清戦争(勝手に代理戦争)

2020年07月23日

だいぶ記事があいてしまいました。カメの失踪や身体の調子で少々落ち込み気味でした。果たしてこのブログを読んでくれているかたはいるのか。とも思いつつまた書き始めたいと思います。日本神話も空いてしまいました。応神天皇(誉田別命(ほむたわけのみこと))まではまだだいぶあるますが、こちらも復活したいと思います。

 

今回は日清戦争ですね。明治維新→日清→日ロ→大東亜、延いては現代までの歴史は関連しているのですから日本人として無関心ではいけません。ここに書いてあるのは私見です。興味や疑問を持ったら自らから調べましょう。受け売りだけではいけません。

昔から言われるように、地勢的に朝鮮半島は日本列島に突き付けられた匕首(あいくち)です。この地にどのような勢力が生まれるかは日本国にとってとても重要なことでした。明治維新で近代国家に舵を切った日本でしたが、この時の朝鮮半島が不幸にも非常に不安定な空白が生じかねなない状態にあったわけです。不安定な状態というのは野心を持った者に狙われやすいということです。また、国内にも様々な思惑が交錯していた時代でした。

日清戦争までの朝鮮は中国の年号を使う清に従属する半独立国でした。清の属国であったのか冊封体制下にあったかは諸説ありますが、重大な影響を受けていたことは確かです。日本にとって大国清は鎌倉時代からの脅威であり、元寇や白村江で実際に戦った相手です。その大国清がアヘン戦争で英国に蹂躙され香港の割譲(南京条約)同様に米仏にも条約を締結させられました。これにロシアが加わります。

ロシアにとっては隣国清が欧米に占領されてしまうことは脅威でした。海上経由での通商権を狙いますが失敗。ロシアはターゲットを清に絞ります。列強に翻弄される極東という手に汗を握る状況に日本は決断を迫られます。俗にいうロシアの南下が始まりました。激しく国境を恫喝侵犯する外国対し清は有効な処置を取るだけの武力も意思も失いかけてゆきます。

 

維新を遂げた日本の次なるテーマは朝鮮半島の扱いです。清を舞台とした列強との接点。朝鮮半島が落ちれば脅威は直接日本のものになります。カギを握る朝鮮半島は揺れていました。

 

「華夷秩序」という言葉があります。私がChinaを中国と呼ばない理由。中華思想とはChinaが世界の中心の華でありChinaに従属が深い国ほど上位、関係が薄いのは下劣な国という考え方です。この華夷秩序で最も強く結びついている国が清と朝鮮だったのです。(今でも朝鮮半島の人たちが日本を見下すのは華夷秩序に属さなかった日本が野蛮で下等な国としてみえるからです)

 

アジアで唯一の近代国家となろうとした日本にとって、朝鮮半島へのロシアや列強の南下を止めるには朝鮮半島に自立してもらうしかないと考えます。清から切り離す工作もしますが、朝鮮王朝も清との関係を重視する保守派(事大党及び王妃閔妃と閔氏一族)と、日本に倣い改革を実現しようとする改革派(独立党)ができて対立してしまいます。(1884甲申事変で保守派が有利な状態)

 

1894年1月、甲午農民戦争(東学党の乱(不正役人対農民戦争))が起きます。閔氏政権は清に出兵を要請。日本は天津条約(1885年 伊藤博文・李鴻章)に基づき出兵したことで日清戦争に発展します。

 

日本の派兵は天津条約に基づく合法なものであるとは思いますが、日本中心に考えると朝鮮半島を安定させるためには清を排除して独立させるしかないと考えていた日本政府が仕掛けたといわれても言い訳できません。現に明治天皇は「今回の戦争は朕素より不本意なり、閣臣等戦争の已むべからざるを奏するに依り之をゆるしたるのみ,之を神官及び先帝陵に奉告するは朕甚だくるしむ」と仰せられたと明治天皇記にあります。

大東亜戦争でもそうでしたが天皇でさえ止められないのです。いわば天皇にそれだけの権限があれば、日清戦争も大東亜戦争も起こらなかったのかもしれません。日本政府として清との戦争を決意しました。もちろん日本の国益を考えての事でしたが朝鮮半島を独立させるための代理戦争と言えなくもないと思います。(朝鮮が一致して望んだわけではないので勝手な考えであることは重々承知しています)

 

1894年7月、ロシアの南下の脅威で利害の一致する日英の間で日英通商航海条約が調印され3日後の7月19日、清国に最後通牒を送ります。日本の戦争目的は清の朝鮮への影響力を削ぐものでしたので、朝鮮内の軍事拠点平壌占領と黄海の制海権を確保した段階で目的は遂げたのですが、結果的には国境を越え清国内に入り遼東半島に上陸、旅順や大連まで占領し清国と講和します。日本の勝利です。

 

日本の直接戦闘での傷病者2,647名(うち死者736名)でしたが戦後の死者は10,841名。戦争後に疫病で亡くなった人が圧倒的に多かった。大東亜戦争でもそうでした。外国で戦うことは疫病との闘いでもあるのです。

 

清と戦争したのですから越境とは言わないかもしれませんが、朝鮮から清に越境して占領地を広げたのは

ある意味、列強の真似をしてしまいまったのです。当時はそういう時代だったのですから、現代人がそのことを責めてはいけません。ちょっと奥まで入ったのですが、欧米人には許されても有色人種には許されないということを日本人は知ることになります。それが次回、三国干渉・臥薪嘗胆のお話に続きます。

 

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日清日露大東亜(2)先ずは「明治維新」

2020年06月20日

当然歴史とは自らの立ち位置によって異なります。結果は一つですが現実に至った背景や経緯は一人一人の解釈によって異なるでしょうし、時間が経てば経つほど当時の情勢がわからぬものが評価するということになります。背景や経緯ばかりではありません歴史的事実についても評価は変わるのです。

 

初めに申しておきますが、いい国(1192)つくろうと憶えた鎌倉幕府の創建が、幕府の基本的な機能は1185年に完成していたということから今では教科書で1185年になっているそうです。

 

しかし これを「歴史修正主義」という人は

いないでしょう。後から解った事実、経緯や背景から見方は変わるのです。歴史を修正したのではなく、より当時の状況に寄り添って正しいだろうという方向に合わせたということです。現代の尺度で見るべきか、当時の状況から許容すべきかを現代そして未来の人が選ぶということです。

 

しかしここに嘘があってはいけません。嘘や噂話で当時の歴史を語るならば、先人に対する冒涜ということになってしまいます。

 

また私の回りくどい説明から入りました。明治維新の評価も思想信条からも違えば、歴史観からも異なります。判断は読む人に委ねられるので、より正確だと思うこと、より真実と信ずるほうを選択してください。教科書検定しないと選択する教科書で書かれている内容が異ってしまうのです。教科書だってそうなのです。

 

 前置きがなくなりました。明治維新はなぜ起きたのか、私は前項の連続性から地政学的な理由で極浅く説明したいと思います。関心を得た人は自分で調べましょう。知らねばならない歴史です。

江戸幕府は260年間「幕藩体制」を基に統治されてきました。鎖国も現代教科書から消えて言葉になっているそうで、国を一部限定的に開いて、大名に藩を納めさせて監視することで内戦のない260年を築いたわけです。

その前後アジアはどうだったかというと

 

 ・1571年スペインがフィリピンを

  (後にアメリカに代わる)

 ・1602年にオランダは東インド会社を設立し

   香料とコーヒーの輸出を独占、300年支配

 ・1863年にカンボジア1885年にベトナムを

   フランスが

 ・1765年インド1886年ビルマ

   1895年マレーシアをイギリスが

 

次々に植民地にされていたのです。

 

香辛料や石油など天然資源を得て本国を繁栄させていたわけです。東南アジアで植民地にならなかったのはタイくらいだったのです。清もアヘン戦争の不平等条約をきっかけに割譲や租借地として分割されていきます。

 

幕府の統治能力が低下する中、長州藩士、薩摩藩士を中心とする「尊皇攘夷」派の志士が出てきます。反政府の活動家ですから、見方によっては反逆者ですが、天皇を尊び外国を打ち払うという尊王攘夷派の存在の反対側には弱腰で外国を招き入れる危険な幕府という構図があったわけです。

 

1839年アジアの大国清と英国の間にアヘン戦争が起こります。ヨーロッパの対清の権益を実質握っていたのはイギリス。アヘン貿易を禁止する清に対してイギリスは清をアヘン漬けにしていきます。取り締まりを強化する清に砲撃を浴びせて不条理に打ち負かしました。この時割譲されたのが香港。以後香港はイギリスの植民地を経て1997年にChinaに移譲されますが特別行政区となります。(2047年まで社会主義にならない約束が今反故にされようとしていますが)西洋の軍事力との圧倒的な差は日本に伝わり幕府はこれを恐れ増々弱腰になっていき逆に攘夷派は危惧を抱き攘夷を行う意を強くしていきます。

 

日本は資源がなかった故に植民地としての魅力がなかったという説もあります。確かに天然資源も農産物も特に魅力的なものはないけれど地図を見ると地政学的には、よい場所にある島ではあります。

1853年1回目のペリーの来航で尊皇攘夷派の憂いていたことが現実になります。帆船で海運していた程度の社会に蒸気機関に大砲を付けた軍艦が黙々と煙を吐いてやってきて空砲を撃つのですからアジア人は見ただけで降参です。開国を迫るペリーに1回目は検討するということで帰ってもらいましたが約束の1年を待たずにやってきます。

幕府は結局圧力に屈し1854年に「日米和親条約」を締結。イギリス・ロシア・オランダとも同様の条約を結ぶのですが外交経験が乏しい上に外法権や関税自主権の放棄等が含まれる不平等条約であったわけです。今でも日米安保条約で不平等な内容が問題になっていますが、そういう点では日本外交は変わっていないのかもしれません。しかし攘夷派の志士は違ったのです。

 

彼らに軍艦が作れるのだから我々も作ろうとなります。1873年(明治6年)に横須賀の造船所にてフランス人の指導の下、日本初の軍艦「清輝」が起工され1875年に竣工。この辺の気概が現代人には受け継がれていないのが残念です。

薩英戦争を御存じでしょうか。1863年の生麦事件(現神奈川県横浜市鶴見区生麦で薩摩藩国父島津久光の行列を馬で横切ったイギリス人を藩士が殺傷した事件、日本では当然でもイギリス人にはわからない)の解決と補償を艦隊の力を背景に迫るイギリスと、主権統治権のもとに兵制の近代化で培った実力でこれを排除し防衛しようとする薩摩藩兵が、鹿児島湾で戦うのですよ。街はだいぶ焼かれたけれど、世界最強のイギリス海軍も横浜に逃げて行ったのだから善戦ですね。今の日本で一地方自治体が他国相手に戦争するなんて考えられませんが。

 

下関戦争を御存じでしょうか。長州藩は下関海峡を通る外国船を無差別に砲撃する攘夷を仕掛けます。1863年と1864年にイギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強連合四国との間に武力衝突を起こします。一地方自治体がまた思い切ったことをします。道州制導入ではこんなことも起きるのでしょうか。勝ち目はありませんでしたが、これを戦ってやろうじゃないかっていう気概が現代人としては理解できないながら羨ましくもあります。

 

これらの戦争で幕政下では攘夷が不可能だということを攘夷派は悟り、倒幕運動に拍車がかかります。大政奉還(政(まつりごと)を朝廷にお返ししますという意味の王政復古です)翌年の1868年、鳥羽伏見で衝突した幕府軍は薩英戦争によりイギリスと近くなった薩摩との薩長連合軍の圧倒的兵力の前に勝負にはりませんでした。そのうえ薩長軍に錦の御旗(朝廷軍旗)が揚がり幕府側が朝敵となって明治維新の方向性が決定するのです。明治維新とはある一つの現象ではなくてこれら尊王攘夷運動の主に1953年(ペリー来航)から1867(大政奉還)の約15年間に起きた改革のことをいうのです。政権を力で転覆させた一面も持っていて現代に於いては個人的に肯定できませんが進んだ道は間違っていなかったと思っています。

 

次回は日清戦争です。

 

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日清日露大東亜(1) 日本乙女を守る

2020年04月26日

主権回復の日(4月28日)が近いので関係することを書きたいと思います。

 

日本国の形を見てください。なんとなく女性的な優しい形をしていると思いませんか。昔から「神州」「敷島」「大八洲」などと呼ばれて日本人は国土に誇りを持ってきたわけです。

 

しかし現代人の私たちは日本人であることを恥じ、

誇りを持てないように教育されてきました。

 

それは余談として、この6,852の島(周囲100m以上)から成る麗しの日本列島。火山列島故の災害を克服しながら、平和に過ごしていればよかったのですが、他国と交わるようになってから、そうは言っていられなくなってしまいました。

 

下の地図↓ 

他国からの視線で見てみると。(これは現代の国境が書いてある地図です)邪魔ですね。今の国名でロシアとChinaと北朝鮮と韓国からみると(旧満州もChinaです)この麗しい形がいかにも巧妙に配されているように思えてなりません。

現代に於いては、ロシアとChinaからみて太平洋という大海への出口を塞いでいます。ロシアは無理に日本海に張り出しているような形になっていますが、ここにウラジオストク港があります。北海道以北の海は冬凍ってしまうので軍港として自国の港をここに持つのは重要なことなのです。

 

Chinaは台湾と尖閣(沖縄とも言いだしています)が自国領であることにしないと閉塞されてしまいます。最近、半ば強引に南沙諸島のサンゴ礁を埋め領有権も主張して実質軍港を作ってしまいました。強引ですが これが彼らのやり方で、相手が引いたら出る。いったん出たら絶対に引きません。誰に何と言われようと。話し合いは通じないのです。果たして今の日本は尖閣と沖縄を守れるでしょうか。一旦乗っかられたら負けです。竹島のように。

間違っていようがどっちが正しかろうが実効支配されたら負けなのです。

地政学の話でした。領土の負け惜しみは、徐々に書いていこうと思います。知識として。しかし負け惜しみです。北方領土も竹島も やがては尖閣も正当性などあっても無意味なのです。乗っかられたら終わり。

 

日本のこの魅力的な形が罪なのでしょうね。取りたくなる形と位置にあるでしょう。ある時は出城として、またある時は防波堤として使えそうな形をしているではないですか。

 

この領土を守るのは我々日本人なのですが、武力でも、人力でも守る力を持っていません。それは私たちの国土を狙う人から考えて非常に都合が良いことなのです。日本が自分で自分を守ることを放棄している憲法。これをずっと持ち続けてもらった方が少しずつソフトに侵攻していけるわけです。武力を使わずに。

 

なんで北海道と沖縄で、国と地方を分断するような動きがあるのでしょうか。よく考えましょう。それらの分断工作や他国人と日本人が平等ではない法律。例えば日本人がChinaの土地は買えないが逆はできる。とか、ヘイトと言われ取り締まられる法律が外国人は日本人を訴えられるけれど反対(日本人は言われっぱなし)はできないとか、極々 おかしいことがまかり通っています。

 

もっと恐れるべき国防動員法です。Chinaも韓国も国防動員法(韓国は国防義務)で戦時には、全国民が軍属として戦争に加わる、ということは万一それらの国と戦時となると。日本人とそれらの国の人は、立場が全く違ってくるということです。日本人には そんな権利はないので反撃はできませんが彼らは国のための行動を起こせるということ、どんなことが起きるかは一度は考えてみるべきと思いますが、仲よくしようと個人レベルで言っても国が始めてしまうと、それをやらないと彼らは法律違反になってしまうのです。

 

今回のコロナ禍を戦争に例える人がいますが、戦争はもっと厳しいでしょう。日本人がコロナ対策で 一つになれないようでは相手から戦争を仕掛けられても、すぐ降参でしょうし、既にソフトな戦争は始まっているのです。

 

気づいていない人はボーっとしすぎです。サラミ戦術=調べてください。

Chinaは第一列島線、第二列島線を定め30~40年程度の目標を定めて進攻しています。彼らは計画を何十年、或いは百年単位かけても必ず実現させます。現在は第五列島線まで我が国の防衛白書に記載があります。この実行力は見習うべきです。南沙諸島のサンゴ礁埋めてもアメリカが何かできましたか? 船を近くに航行させるくらいのものです。Chinaのほうがしたたか。

 

私たちはこのかわいらしい国土を守りたい。

今回のことでよく分かりました。コロナ問題でどの国も自分のところで手一杯、自国が一番。当たり前ですが。

国防に関したって戦争になるくらいなら守らなくてもいいとか、経済的に生きられるなら他国に依存でもよいのではないか。などという人が出てくるのではないかと思うほど混乱して、2~3か月で、もう限界と言っています。

この動きを見ると日本乙女(私の日本列島のイメージ)は守れるか。いや一緒に守ってください。

とりあえず現実を知りましょう、勉強しましょう。

 

日清・日露・大東亜がなぜ起こったのか。そのすべてがこの一枚の地図で説明できるのです。

この地図を使って自国の立場から一方的に説明していきます。

(正確を期すため ご自分でも調べてみてください)

 

 

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