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f)日清日露大東亜の記事一覧

ウクライナをみて想う。藤井一中尉 没77年

2022年05月29日

5月28日は藤井一中尉の命日です。先に逝っていたフクさん、一子ちゃん、千恵子ちゃんと再会した日です。昨年の今頃、誰が現在進行形の戦争を目の当たりにすることになると思ったでしょうか。大国ロシアの西側に接するウクライナ、この国も昔のソ連兵の祖国というのが少々複雑ですが東に接する我々の脅威はロシアだけではありません。危険な国がいくつもあります。脅威はむしろ日本が感じなくてはいけないのです。

写真は内閣府のホームページからダウンロードできる『沖縄戦記』のほんの一ページです。当時の軍人やお役人の記録がその場で書いた記録です。それぞれ受け止め方があると思いますが内閣府にアクセスして読んでみるとよいと思います。教えられていることと違う当時の沖縄の人々の感覚がなんとなく理解できます。

 

ウクライナでなぜ一般人が戦争に巻き込まれているのでしょう。理由がわかりますか。なぜ沖縄で多大な犠牲を出してしまったのか。ことはそう簡単ではないのです。現在でも一般人が巻き込まれる危険性は端っこから生じます。

日本の端っこが戦場になり犠牲者が出たのは日本が沖縄を捨て石にしたという理由では説明できません。沖縄戦記でも軍と行動を共にしたほうが安全だと思う人も多かった。戦況が進むにつれ人の心も異常になって感覚がマヒするということはウクライナで起きていることと似ていますね。泣きながら戦争は嫌だと言いながら、その場にとどまっているお年寄りの映像を見ると胸が締め付けられます。同じことが沖縄でもあったのでしょう。

 

だから我々は端っこに注意しなければならないのです。ロシアの議員が言っています。『アイヌはロシアと同じ民族であり北海道に渡った』日本の政治家が言っています『アイヌは日本の先住民族である』これが両方本当ならばロシアがウクライナに侵攻したのと同じ理由が作れますね。Chinaの言い分は『古代琉球は中国の「属国」だったので日本の領土ということはあり得ない』です。一定数琉球独立を掲げる人もいます。そうしたら元々Chinaの属国であった琉球を救うという大義名分が生まれますね。

かつての日本人だったらウクライナ人のように圧倒的に不利でも戦ったでしょう。有名な『戦っても亡国、戦わずとも亡国』と言った軍令部総長・永野修身。正確には『戦わないなら国が滅び、戦ったとしても国は滅びる。けれど戦わずに国が滅びるというのは日本民族が身も心も永遠に国を失うことになる。もし戦い、護国の精神に徹するなら、たとえ戦いに勝てなかったとしても祖国を護るという日本精神が残る。そうすれば私たちの子孫が必ず再起しあるいは三起する』いやあ実に恥ずかしいですね。日本人は戦に負けて日本精神も残らなかったのではないでしょうか。もし本当に日本精神がなくなっていたら大東亜戦争で命を懸けた英霊は本当に無駄死にとうことになりますよ。私は南方のぬかるみで足を取られて餓死した一兵卒でも大事な英霊として靖国で鎮まっていると信じています。藤井中尉を初め沖縄に急いで特攻して逝った人たちはもちろん歩兵でも軍属でも皆日本を守った英霊で、その人々が守った日本に今生きているのが私たちです。私たちも色々な意味で日本を守る義務があるでしょう。

私たちも歴史の中に生きています。侵攻、侵略、戦争と立場の違いで言い方が変わる事実を見ています。私たちにとって戦争に見える行動はロシアは平和維持活動と言っていてウクライナではジェノサイドなのです。今現在の情報社会でもこの状況で正義の味方など現れず。武器供与するから自分で守れと言われてしまうのです。

 

では大東亜戦の時はどうだったのでしょう。私の中の解釈では(もちろんそれ以前の流れを現代ウクライナ同様無視して開戦当時だけ切り取ってのものですが)

第45振武隊(快心隊 藤井一少佐 搭乗機)

欧州は特にアヘン戦争以降、China(地方名)の中にいろいろな権益を持っていて日本も日清日露の戦勝国であった。欧州はChina以外の植民地でも搾取し上げた利益を自国に還元して栄え、日本は人口増加と家督制度の中で次男三男が相続する土地や仕事がない、資源がない等の事情から中南米やアメリカに移民を送っていた。そんな中、満州はChinaの端でソ連との緩衝地帯、且つ移民先として有望だった。ましてChinaには正当な権益を持っていて求められて出兵した関東軍が治安を維持していた。5族協和の満州国も作った。(五族=日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人)みんな仲良く栄えて誰も文句言うまいと思ったらクレームが入った。中南米で移民排斥運動が起こり世界はブロック経済化し日本は弾かれる。関東軍の行動を調査したリットン調査団の結論は日本にとって甘いものだったが日本はそれを良しとしなかった。欧州や遅れてきた大国アメリカが日支事変に介入してくる。日本はますます孤立する。欧米に許され日本には許されないことがあってよいのか。日本人には理不尽に思えた。日露戦争で得た権益は8万人の命と国家予算の3倍の戦費を賭けて得たものだ。到底簡単に手放すわけにはいかない、コミンテルンの介入もあり欧米との正面対決となる。

その後は皆さんの知る通りです。問題はその後です。日本が二度とアメリカに立ち向かえないようにする。その緻密な戦略は多岐にわたり結果として依存性の高い人間を量産します。自分の生存さえ他者に依存する。強い者に従えと、核を持った国には逆らわないほうが良いとなれば北海道と沖縄は失ったも同然。また抵抗すれば北海道と沖縄が戦場になるのも必然。日本人の覚悟が迫られております。『備えあれば患いなし』考えることから逃げてしまってはいけません。どうやって日本を守るのですか。家族のある人はどうやって家族を守るか。子供たちや地域を守るのか。昔の人は身近に防衛を考えていたでしょう。

日本は今でも資源がない、食料自給率が低い、労働生産人口の低下等の危機を抱えています。大東亜戦争前と変わっていないのです。1990年代にGDPの上昇カーブはいずれアメリカをとらえるかのような勢いでした。半導体の50%をDRAMの80%は日本が作っていましたが経済戦争でそのほとんどを失い25年間経済成長していない唯一の先進国(いずれ先進国でなくなります)です。なのなのにどうして現代日本人は経済や軍事での安保や生存について考えなくてもよいと思っているのでしょう。憲法9条があるからですか。日米安保という曖昧な約束があるからですか。それらが破られた時の事。なぜ考えなくてもよいと思ってしまったのでしょう。WGIPが日本人から考えることを捨てさせたのです。『今だけ』『金だけ』『自分だけ』に向かっていけば必然的に日本が日本でなくなることを彼らは研究済みだったのです。

 

 

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日清日露大東亜(6)日露開戦の背景

2021年02月28日

時間が空きましたので再確認です。第2次大戦までは帝国主義の時代です。欧米列強が武力でアジア/アフリカを

植民地支配していましたが正当な権利とされていました。これを現代の感覚で非難することは間違っています。

また、当記事は私の主観で書いていますので疑問や大事だと思うところはファクトチェックをお願いします。

帝政ロシアはバルカン半島の南下政策で

イギリスと対立しアジア方面へ進出し日本にとっての脅威となっていました。

 

1860年にはアロー戦争(第2次アヘン戦争)で英仏と清の仲介に乗じ清との国境線を変更しウラジオストクを手にします。

 

地図をみると日本海に不自然に伸びた国境。ロシアの不凍港はこうして生まれました。

(シベリア鉄道はモスクワとウラジオストクを結ぶ長大な鉄道です)

 

ウラジオストクの語源はいくつがありますが概ねウラジ=「治める」「占領」+ボストークvostok「東」で「東方を支配せよ」という解釈になります。この重要な位置と意味(日本の隣の不凍港)は現代に繋がっています。

日清戦争後でも日本は三国干渉によりロシアに権益の一部を放棄(遼東半島はロシアのものに)させられました。有色人種初の帝国主義国日本でしたが白人列強の傲慢に日本国民の不満も積もっていました。

 

ここでイギリスと日本の利害が一致します。お互いのChina・Koreaの権益を認めてロシアの膨張に対抗する目的で「日英同盟」が締結(1902年)されます。日本にとって最初の軍事同盟でした。(この同盟が長く続けば日本の運命も違ったものになったはずですが20年後第一次大戦の戦勝国(米・英・仏・日)の4カ国条約により失効しました。後々のことを考えると残念です。)

 

余談ですが本当は支那としたいのですがChinaと書きます。支那は決して侮蔑する言葉ではありません。満州に派兵された私の祖父は愛をこめて支那/支那人と言っていました。しかし、不快な思いをする(そう思わされている)人がいるというのでChinaと書きます。ただChinaは地域の名前で当時の国名は「清」です。Chinaは易姓革命の国ですから王朝が変わると違う国になるのです。清は漢民族の明に代わり1616年に建国した満洲民族主導の国です。

1900年、列強うごめく清朝Chinaで義和団事件が起こります。アヘン戦争以降Chinaにはイギリス・アメリカ・フランス・ドイツ・オーストリア・イタリア・ロシア・ベルギー・日本などが租界と呼ばれる外国人居留地を持っていて清の国力は低下していました。反キリスト教の宗教団体が義和団という組織を作り排外(外国排除)武力活動を起こします。清朝末期の西太后は初め鎮圧しようとしますが反転し義和団を支持し外国に宣戦布告します。

 

日本を含む8カ国が連合軍として2か月で鎮圧しました。連合国の兵力7万、清側20万、日本兵の犠牲者757人。外国人教会関係で約240人、China人のキリスト教信者は2万3千人が犠牲になったと言われています。日本兵に犠牲者が多いのは、地理上Chinaに近い日本とロシアの派兵数が多かったことも要因です。

 

義和団事件の結果、勝者である列強の意向やそれに伴う賠償金により清国の衰退と植民地化が一層進むことになります。また、日本が日露戦争に踏み切る原因にもなりました。

満州還付条約調印で出兵したロシアはChina東北部の満州を一時的に占領し1年半のうちに3度に分けて完全撤兵する約束をしたのですが姑息な手を使って実質的に約束を守らず居座ります。地図を見ていただくとわかる通り満州地方はウラジオストクとKoreaに接し、ここを抑えられると地理的に日本にとってKoreaが最後の砦となります。ロシアはKoreaにも触手を伸ばします。

 

1903年、満洲還付条約が帝政ロシアにより破棄されます。満州に兵を置き旅順に総督府を設置し奉天を占領。日本の最後の望みは「満韓交換論」日本はロシアの満州での権益を認めるがKoreaでの日本の権益は認めさせることを図りました。最後の防波堤を守りたいという日本の願いが込められたものでしたが望みは絶たれます。ロシアはこれを拒否し日本は「窮鼠猫を噛まざるを得ない」状況になってしまいました。

 日本はロシアとの戦争は避けたかった。何しろ勝ち目がありません。日本とロシアとの国力、兵力差があまりにも大きいことを政府も軍も分かっていたからです。

 

負けるつもりで戦ってはいけませんが勝ち目がないとわかっていても戦わなければならないときがある。今の私たちには理解はできても実行できません。平和の祭典と戦争を比較してはいけませんがコロナ禍でのオリンピックを迎えた日本人の弱気発言が気になります。軍人勅諭には「命は鴻毛より軽し」などと人権軽視の部分もありますが一旦国家が決定したことはやり抜くという力があったことは羨ましく思います。現代の日本人が当時の人々より精神的に脆弱になったとすれば、それも問題だと思います。

 

その点はChinaの為政者を尊敬します。彼らは一旦口にしたことは何十何百年かかっても必ず成し遂げます。そのChinaと今の日本人が対等に交渉できるとは思えません。China数千年の歴史の中で一つの国が続いていた事実はありませんが常に大国でした。たまたまアヘン戦争以降の列強によって狂わされた統治によって一時停止していただけです。これから必ず復権します。そうしたとき我が日本が腑抜けの国になっているこの事実を為政者や若者は自覚して備え改善しなければなりません。

 

日露戦争で勝ち目のない相手にどう臨んだか次回以降に記します。(既に明治天皇の開戦の詔勅は紹介済みですが)過去に学びせめて気持ちだけでも先人に続きたいものです。

 

 

 

 

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日清日露大東亜(番外)日露戦争 どう書くか

2020年12月06日

前回 畏れ多くも明治天皇のお気持ちを書かせていただきましたが、明治人最強説を公言している私としても日本の近代史としても日露戦争は壮大なテーマであって素人の私程度の知識で総括できるものではありません。もう一つの側面として日本として勝った最後の戦争です。勝ち方にもいろいろありますが、この勝利がもたらした日本国内の変化及び世界の変化というものはその後の世界の形を変えてしまったといっても過言ではないくらいの歴史的分岐点です。でも学校ではそのことはサラッと数ページ歴史の教科書に書いてあるくらいです。何故ですか?後に起こる大東亜戦争は太平洋戦争と呼ばれています。当時日本人は皆が大東亜戦争を戦ったのですが「その呼び方は使ってはいけません」と言われて「太平洋戦争」になったのです。戦死した日本人と話す機会があったら太平洋戦争なんて言っても伝わりません。戦争が終わって75年経ちました。大東亜戦争を使ってはいけないと現在言っているのは日本人です。何故ですか? 戦争後連合国が「おすわり」と日本人に言いました。言った側も忘れ気がついてみたら今でも日本人は未だ座っていた。何故か立たない否、自分の脚で立つことができなくなっていました。ある意味それが連合国側の目的で、そのために働いた日本人がいた、そして今もいるのです。

アメリカをみてください。彼等の云うところの太平洋戦争時、ルーズベルト政権中に300人のコミンテルン社会主義スパイがいたことが公開された公式文書(ベノナ文書)に記載されています。このスパイ工作が日米開戦の大きな一因でした。75年後の今、米の選挙で変なことが起きています。米の甘い選挙は投票する個人の特定と集計のシステムにスキがあります。共和党と民主党の票を合計すると不自然に多い投票数になってしまう。今の米政権の中にいる反政府勢力も仕事が雑です。今も目に見えぬもう一つの政府が存在し彼らの影響力は世界を動かすのです。

米も日本も性善説が強すぎます。民主主義の危うさ。その民主主義は本当の民意を反映しているのでしょうか。本当は絶対に間違わない人徳による治世が良いのだと思います。そういう意味で明治天皇の御代は日本が最も輝いた(一瞬でしたが)時代だったのかもしれません。

その明治に日本が行った日露戦争は国運を賭けた総力戦。国運を賭けない戦争なんてないと思いますが、スイッチ一つで他国を爆撃する現代の戦争と違って、歩兵が武器を持って前線で殺しあう戦争。そんなものを傍観もしていない後世の我々が軽く書いてはいけないという思いがある一方で、これは主観を交えて書いておきたいとも思います。

なにしろ日本の教育はこの時代について深く触れません。私が書く間違いも興味を持って調べる人が出てくれば無駄ではないと思います。

その後の日本の、アジアの運命を変えた日露戦争をどう書くか。戦争の史実はサラッといきましょう。史実はネットですぐに調べられますから。私は入り口までの案内人として、ここまでどういう流れで戦争に向かったか書いてきましたので、ここからは乃木希典(陸)と東郷平八郎(海)とそれに纏(まつ)わる人々にフォーカスしていきます。特に乃木大将については長くなります。私個人の思い入れが明治天皇-乃木希典-昭和天皇で繋がっていますから。

身内は長い文書に辟易して私のブログを読んでくれないのですが。私の遺書として亡くなってからでも良いから読んでみてください。そして日本のことを大切にしてください。

 

人物にエピソードを加えて書いていきます。迷信に近い話や噂話も書きますので真偽は自分なりに調べてみてください。誤解を受けそうですが兎も角、日露戦争を戦った明治人の正しく殺しあう姿勢は残念ながら大東亜戦争ではだいぶ劣化します。

 

偶然、三島由紀夫没後50年ですが三島先生が自衛隊に求めた「天皇の軍隊」所謂「皇軍」というものは日露戦争で終わっていたのかもしれません。先ほど書いた「武士道に通じる正しく殺し合う」ルールに基づく戦は大東亜戦争に於いて兵を動かす謳い文句として有効に使われましたが言葉を発した当人は腐敗堕落して多くの将兵を見殺しにした結果になってのではないでしょうか。

 

今後、日本人は何処を目指して生きていくのでしょうか?人任せにしてはいけません自分の事として考えましょう。人口減少・格差の拡大・社会インフラの劣化・外国との関わり等問題山積です。特に日本人の人心の劣化が著しいことが原因で社会的経済的に国威が下がっていくでしょう。どのレベルまで下がるか予想できません。或いは亡国にまで至る可能性もゼロとは言えません。下がるところまで下がってから気づくと思います。その頃もう我々は居ませんが、もう一度上昇するためには復古が必要だと気づくでしょう。さてどこを目指すのでしょうか。私のお勧めは明治です。誤解してはいけません。物質的なものを目指すということではありません。人心道徳からやり直すことを目指すなら日本人なら明治です。それだけ祖先には地球上で真剣に生存を賭け戦った時期があったということを知っていただきたいと思います。

 

 

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日清日露大東亜(5)日露戦争序

2020年09月22日

『よもの海 みなはらからと 思ふ世に など波風の たちさわぐらむ』(明治天皇御製 明治37年)

古事記と和歌が理解できないと日本人になれないといわれます。御製とは天皇が詠んだ和歌や詩文のことです。

明治天皇の御製は九万三千首を超えています。

明治政府を簡単に言えば1867年の王政復古によってできた日本の政府ですが「薩長政府」をいわれるように維新を遂げた人たちによる政府です。ここから立憲政治へと変えていきますがそれを進めるのも当然の成り行きから「薩長」中心でした。あまり薩長が目立ちすぎても国民から不満が出るので内閣制導入も気を使ったと思いますが結果的に今でも長州の総理大臣が一番多いのです。

 

日本帝国憲法発布により憲法の条文の下で天皇は陸海軍を統帥する権限を持つことになります。

明治天皇の御心を私ごときが量るのは畏れ多いことですが近代国家になろうとしていた日本の軍隊は皇軍(天皇の軍隊)でした。新政府が初めに行ったのは、天皇を中心とする政権体制を固める事であったのです。

 

天皇の生まれ年を西暦で書くのは憚れますが分かりやすいので敢えて記すと1852年11月3日。11月3日が明治節を経て「文化の日」と呼ばれるのは明治天皇が和歌を始め文化に造詣が深かったことによります

1868年(明治元年)は御年16歳です。

1881年 ハワイカラカウア王訪問時 陛下は29歳。日本国も未熟でした。

1894年 日清戦争42歳。

1904年 日露戦争52歳。列強には遥か及びませんがようやく先進国家に近づいた時期でした。

 

ハワイの占領を傍観するしかなかったこと。欧米列強が亜細亜で我が物顔のふるまいを見せていたこと。これらを明治天皇はどんなお気持ちでみて居られたのかと思います。

そこで冒頭の有名な御製です。日露戦争開戦が決定した直後に詠まれたという説がありますが正確には わかっていません。ただし、明治天皇記にかかれた御前会議前後の天皇のご様子から決定後に詠まれたものと私は思います。意味は「四海(日本の周り近隣諸国)は皆同胞だと思うのに何故ゆえ波風が騒ぎ立つのであろうか」ということです。30余年後、昭和天皇が大東亜戦争開戦の御前会議でこの歌を2度引用されます。同じお気持ちだったということだと理解します。

日露戦争を語る前に明治天皇の開戦の詔勅(開戦に当たってのお気持ちを表した文)を現代語訳版で記します。偽らざる天皇のお気持ちが書いてあると思います。開戦の詔勅、終戦の詔勅をよく読むことが日本人としてその戦争を理解することにつながるのです。疑う人もいるかもしれませんが私は真の御心だと信じます。明治天皇や昭和天皇を好戦的な人物とみるような考えを私は強く否定します。世界一平和を愛する天皇でさえ止められないうねりが、この世の中には起こるということです。

 

-----日露戦争開戦の詔勅現代語訳-----国立公文書館 アジア歴史資料センター 引用)

「天の助けによって先祖代々皇位を継承してきた家系に属する大日本国の皇帝は、忠実にして勇敢な汝ら国民に以下のことを知らせる。

 朕はこの文書で、ロシアに対する戦争を行うことを布告する。朕の陸軍と海軍は、ぜひとも全力をつくしてロシアと戦ってほしい。また朕のすべての部下らは、それぞれの職務や権限に応じて国家の目的が達成されるように努力してほしい。国際的な条約や規範の範囲で、あらゆる手段をつくして誤ちのないように心がけよ。

朕の考えは、文明を平和的なやりかたで発展させ、諸外国との友好関係を促進することによって、アジアの安定を永遠に維持し、また、各国の権利や利益を損なわないようにしながら、末永く日本帝国の将来の安全が保障されるような状況を確立することにある。これは朕が他国と交渉する際に最も重視していることがらで、常にこうした考えに違反しないよう心がけてきた。朕の部下らも、こうした朕の意思に従ってさまざまな事柄を処理してきたので、外国との関係は年がたつにつれてますます厚い親交を結ぶに至っている。今、不幸なことにロシアと戦う事になったが、これは決して朕の意志ではない。

 日本帝国が韓国の保全を重視してきたのは、昨日今日の話ではない。我が国と韓国は何世代にもわたって関わりをもっていたというだけでなく、韓国の存亡は日本帝国の安全保障に直接関係するからでもある。ところが、ロシアは、清国と締結した条約や諸外国に対して何度も行ってきた宣言に反して、今だに満州を占拠しており、満州におけるロシアの権力を着実に強化し、最終的にはこの土地を領有しようとしている。

 仮に満州がロシア領になってしまえば、我が国が韓国の保全を支援したとしても意味がなくなるばかりか、東アジアにおける平和はそもそも期待できなくなってしまう。従って、朕はこうした事態に際して、何とか妥協しながら時勢のなりゆきを解決し、平和を末永く維持したいとの決意から、部下をおくってロシアと協議させ、半年の間くりかえし交渉を重ねてきた。ところが、ロシアの交渉の態度には譲り合いの精神はまったくなかった。

 ただいたずらに時間を空費して問題の解決を先延ばしにし、表で平和を唱えながら、陰では陸海の軍備を増強して、我が国を屈服させようとした。そもそもロシアには、始めから平和を愛する誠意が少しもみられない。ロシアはこの時点になっても日本帝国の提案に応じず、韓国の安全は今まさに危険にさらされ、日本帝国の国益は脅かされようとしている。

 事態は、既にここまで悪化しているのである。日本帝国は平和的な交渉によって将来の安全保障を得ようしたが、今となっては軍事によってこれを確保するしかない。朕は、汝ら国民が忠実にして勇敢であることを頼みとして、速やかに永久的な平和を回復し、日本帝国の栄光を確たるものとすることを期待する。」
≪御名御璽≫

 

御名御璽とは天皇のお名前のと押印のある正式な文書であることです。

皆さんは100年以上前の日露戦争開戦の詔勅を読んでどう感じましたか。日本を取り巻く環境が今も当時もそれほど変わっていないと思いませんでしたか。今世界は帝国主義の時代ではありません。しかし戦争も侵略もなくなっていません。(表立ってドンパチやらないだけです)日本は日米同盟がありアメリカに守ってもらうことになっていますが、日本のためにアメリカの若者の血が流れることをその家族が許すでしょうか。大国の思惑で小国が翻弄されるということは今も昔も変わっていません。

戦うくらいなら占領されることを選ぶという人もいます。そういう人だけが占領されてくれれば良いのですがそうもいきません。温故知新、歴史を知って未来に備えましょう。私たちの日本国と子孫のために。

 

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日清日露大東亜(番外太平洋)ハワイ申し訳ない。

2020年08月29日

アヘン戦争(1840年)アロー戦争(1856年)日清戦争(1894年)と清が戦っていた頃 太平洋で起こっていた事。

 

ハワイやグアムは何故アメリカなのでしょうか。アングロサクソンの強欲には重ね重ね恐れ入ります。ハワイにカメハメハ大王がいらっしゃったことを知らない人はいないと思いますが、大王はアメリカ人じゃありません。周辺の諸島を統一して1810年にハワイ王国を建国した元ハワイ島の酋長です。1800年代初めハワイにはキリスト教布教と捕鯨目的で列強が出入りするようになります。

白人はハワイの内政に干渉し選挙権を得て1850年頃には土地の私有化が合法になり全土の75%が白人の土地になりました。たった12年の間に。(いま日本も危ないですが)ようやくハワイの王がこの問題に気付いたのですが時遅し。1881年当時のカラカウア王は通訳一人だけを伴い人目を盗んで事前連絡なく明治天皇に拝謁します。目的は同じ亜細亜人として一致して欧米列強に対峙しようという提案をするためです。

 

当時日本はアジアで唯一列強に対抗できる準備をしていた国。切実な王は姪であり皇位の資格があるカイウラニ王女を皇族に嫁がせてでも。と願い出ます。

日本の返事は、明治維新から15年そこそこの日本には列強を敵にハワイを助ける力はないというつれないものでした。ここでも、自らを頼ってきた亜細亜人に無力だった若き明治天皇の御心が偲ばれます。

 

「さようならうるわしき日本」と日記に残して王は帰国。1887年、白人がカラカウア王宮を占拠してクーデターを起こし王は権力を失います。3割の白人のみに選挙権が与えられたハワイ。アメリカに送られた王は日本訪問から10年後に亡くなります。

 

1891年8代目リリウオカラニリ女王(涙ものの歌詞アロハオエを作られたかた)が即位しますが彼女がハワイ最後の王となります。(歌詞を読んでみてください)

 

亜細亜人と白人との摩擦によりアメリカは戦艦ボストンを派遣しホノルルは占領されました。この横暴を聞いた日本はハワイの日系人保護のため浪速、金剛の2隻の巡洋艦を真珠湾に送りボストンを挟むように投錨し抗議の意を示しました。

力をつけた軍事力でしたが遅かったのです。1994年アメリカの後ろ盾で臨時政府が独立を宣言しハワイ王国は84年の歴史を閉じます。

 

1年後、浪速は再びホノルルに寄港。新政府は浪速に

1周年の祝砲を撃つことを要請しますが東郷平八郎艦長は「その理由を認めず」として断りました。

明治の軍人として最低限の矜持を示したのです。

もちろん人それぞれ自由ですが私は米領ハワイやグアムで無邪気にはしゃぐ気にはなりません。列強に翻弄された亜細亜を想うとき、異民族の前に滅んだ国家を想うとき取り返しのつかない悲しい気持ちになります。

 

日本はまだ滅んでいませんが内部から分断しています。日本の保守の政治家からも女系天皇容認の発言が出て参ります。日本の皇統断絶(女系天皇が誕生)の時、皇室も日本人も日本列島も残るかもしれませんが、それはすでに日本ではありません。日本国は、大和の国は滅亡したのです。

 

観光で踊られるフラダンスの映像を見るとき国を失って形だけが残る虚しさ感じる人は少ないでしょう。しかし私は感じてしまうのです。おそらく私が生きているうちは大丈夫だと信じますが、そんな日本は見たくないのです。残った人たちは日本人の矜持を取り戻してほしいです。竹槍で最後の一人になっても抵抗するなんてナンセンスではありますが、気持ちだけでも持っていただきたいと思います。自分の家族、親族、地域社会を守ることが国家を護ということとつながるのです。

 

日本の皇統は神から続いています。神話を知らずして日本人を騙るなかれ。神話を忘れてはいけません。

 

 

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日清日露大東亜(4)三国干渉 臥薪嘗胆

2020年08月29日

一万人を超える死者を出し日清戦争に勝利した日本。相手にも犠牲があることを忘れてはなりませんが帝国主義のこの時代、戦勝国は敗戦国に対して賠償と戦果に見合う要求ができたのです。

日清戦争の講和会議は山口県下関市(安倍総理の選挙区ですね)の料亭で行われます。この会議で結ばれた馬関(下関の旧称)条約が現代でいう「下関条約」です。全権、伊藤博文(総理)陸奥宗光(外相)清側は李鴻章(総督)李警報(大臣)との間で結ばれました。

骨子は主に以下の4点でした。

・朝鮮の独立を認める事

・遼東半島と台湾及び澎湖諸島の割譲

・賠償金2億テールの支払い

・日新通商航海条約の締結に伴う租界地での治外法権の承認

 

亜細亜の大国清が破れたことで清を見る世界の目が変わっていきます。列強が清への干渉を更に強くしていきます。特にロシアは日本の進出を好ましく思いません。下関条約が結ばれてすぐ(6日後)ドイツやフランスと共に日本にロシアにとっての要衝でもある遼東半島を返還するように迫ります。戦争も理不尽ですが当時は帝国主義時代力のあるものが弱いものをねじ伏せる時代だったのです。新興国の日本はこれらの大国に抵抗する力がまだなかったため理不尽な要求を跳ね返すことができませんでした。遼東半島は清に返還され後にロシアが租借することになり他の列強も弱体化した清国内に次々に租借地を拡大していきます。大国に翻弄される清。アングロサクソンの露骨さには恐れ入ります。

 

日本は第一義の目的である朝鮮半島の独立は果たしました。(勝手にやったことではあるが一万人の犠牲をだして独立させる必要があったのか少なくとも当時の人はそう信じたのでしょう)

 

この列強の状況を飲まざるを得なかったのが三国干渉と呼ばれる歴史的屈辱ですが、御前会議での明治天皇のお気持ちはどういうものだったのでしょうか。力のあるものに屈する時代が令和の時代にも繰り替えされようとしていると感じるのは私だけでしょうか。これを機に日本国民の中には怒りと同時に「臥薪嘗胆」が合言葉になります。苦境に耐え忍び力を蓄えるということです。「今に見ておれ」という気持ちが国民全体にいきわたり、政府は更なる軍備増強を進めます。

ちなみに下関条約で台湾は文字通り日本の植民地になります。朝鮮は併合ですので植民地とは少し違います。日本は台湾ではじめは軍政を敷き抵抗を鎮圧し、その後民政に切り替えます。列強の植民地「支配」とは違う統治をしていきます。民政局長 後藤新平のことは自分で調べてください。嘉南大圳の八田 與一もお忘れなく。

 

一万人の犠牲を出して朝鮮を独立させた日本でしたが彼らには「事大主義」という考え方があり、それが陸続きの大国間で生きていく術だったのかもしれませんが常に強いものに迎合するのです。三国干渉に屈した日本を見て朝鮮王朝はロシアと近づきます。王朝は親ロシア、親日派は排除されるようになります。さあ、日本はまた勝手に朝鮮をめぐって日露戦争への道を歩んでしまうのでした。

 

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日清日露大東亜(3)日清戦争(勝手に代理戦争)

2020年07月23日

だいぶ記事があいてしまいました。カメの失踪や身体の調子で少々落ち込み気味でした。果たしてこのブログを読んでくれているかたはいるのか。とも思いつつまた書き始めたいと思います。日本神話も空いてしまいました。応神天皇(誉田別命(ほむたわけのみこと))まではまだだいぶあるますが、こちらも復活したいと思います。

 

今回は日清戦争ですね。明治維新→日清→日ロ→大東亜、延いては現代までの歴史は関連しているのですから日本人として無関心ではいけません。ここに書いてあるのは私見です。興味や疑問を持ったら自らから調べましょう。受け売りだけではいけません。

昔から言われるように、地勢的に朝鮮半島は日本列島に突き付けられた匕首(あいくち)です。この地にどのような勢力が生まれるかは日本国にとってとても重要なことでした。明治維新で近代国家に舵を切った日本でしたが、この時の朝鮮半島が不幸にも非常に不安定な空白が生じかねなない状態にあったわけです。不安定な状態というのは野心を持った者に狙われやすいということです。また、国内にも様々な思惑が交錯していた時代でした。

日清戦争までの朝鮮は中国の年号を使う清に従属する半独立国でした。清の属国であったのか冊封体制下にあったかは諸説ありますが、重大な影響を受けていたことは確かです。日本にとって大国清は鎌倉時代からの脅威であり、元寇や白村江で実際に戦った相手です。その大国清がアヘン戦争で英国に蹂躙され香港の割譲(南京条約)同様に米仏にも条約を締結させられました。これにロシアが加わります。

ロシアにとっては隣国清が欧米に占領されてしまうことは脅威でした。海上経由での通商権を狙いますが失敗。ロシアはターゲットを清に絞ります。列強に翻弄される極東という手に汗を握る状況に日本は決断を迫られます。俗にいうロシアの南下が始まりました。激しく国境を恫喝侵犯する外国対し清は有効な処置を取るだけの武力も意思も失いかけてゆきます。

 

維新を遂げた日本の次なるテーマは朝鮮半島の扱いです。清を舞台とした列強との接点。朝鮮半島が落ちれば脅威は直接日本のものになります。カギを握る朝鮮半島は揺れていました。

 

「華夷秩序」という言葉があります。私がChinaを中国と呼ばない理由。中華思想とはChinaが世界の中心の華でありChinaに従属が深い国ほど上位、関係が薄いのは下劣な国という考え方です。この華夷秩序で最も強く結びついている国が清と朝鮮だったのです。(今でも朝鮮半島の人たちが日本を見下すのは華夷秩序に属さなかった日本が野蛮で下等な国としてみえるからです)

 

アジアで唯一の近代国家となろうとした日本にとって、朝鮮半島へのロシアや列強の南下を止めるには朝鮮半島に自立してもらうしかないと考えます。清から切り離す工作もしますが、朝鮮王朝も清との関係を重視する保守派(事大党及び王妃閔妃と閔氏一族)と、日本に倣い改革を実現しようとする改革派(独立党)ができて対立してしまいます。(1884甲申事変で保守派が有利な状態)

 

1894年1月、甲午農民戦争(東学党の乱(不正役人対農民戦争))が起きます。閔氏政権は清に出兵を要請。日本は天津条約(1885年 伊藤博文・李鴻章)に基づき出兵したことで日清戦争に発展します。1886年

日本の派兵は天津条約に基づく合法なものであるとは思いますが日本中心に考えると1886年の清国北洋艦隊水兵が起こした長崎事件による国民感情も含め、朝鮮半島を安定させるためには清を排除して独立させるしかないと考えていた日本政府が仕掛けたといわれても言い訳できません。現に明治天皇は「今回の戦争は朕素より不本意なり、閣臣等戦争の已むべからざるを奏するに依り之をゆるしたるのみ,之を神官及び先帝陵に奉告するは朕甚だくるしむ」と仰せられたと明治天皇記にあります。

大東亜戦争でもそうでしたが天皇でさえ止められないのです。いわば天皇にそれだけの権限があれば、日清戦争も大東亜戦争も起こらなかったのかもしれません。日本政府として清との戦争を決意しました。もちろん日本の国益を考えての事でしたが朝鮮半島を独立させるための代理戦争と言えなくもないと思います。(朝鮮が一致して望んだわけではないので勝手な考えであることは重々承知しています)

 

1894年7月、ロシアの南下の脅威で利害の一致する日英の間で日英通商航海条約が調印され3日後の7月19日、清国に最後通牒を送ります。日本の戦争目的は清の朝鮮への影響力を削ぐものでしたので、朝鮮内の軍事拠点平壌占領と黄海の制海権を確保した段階で目的は遂げたのですが、結果的には国境を越え清国内に入り遼東半島に上陸、旅順や大連まで占領し清国と講和します。日本の勝利です。

 

日本の直接戦闘での傷病者2,647名(うち死者736名)でしたが戦後の死者は10,841名。戦争後に疫病で亡くなった人が圧倒的に多かった。大東亜戦争でもそうでした。外国で戦うことは疫病との闘いでもあるのです。

 

清と戦争したのですから越境とは言わないかもしれませんが、朝鮮から清に越境して占領地を広げたのは

ある意味、列強の真似をしてしまいまったのです。当時はそういう時代だったのですから、現代人がそのことを責めてはいけません。ちょっと奥まで入ったのですが、欧米人には許されても有色人種には許されないということを日本人は知ることになります。それが次回、三国干渉・臥薪嘗胆のお話に続きます。

 

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日清日露大東亜(2)先ずは「明治維新」

2020年06月20日

当然歴史とは自らの立ち位置によって異なります。結果は一つですが現実に至った背景や経緯は一人一人の解釈によって異なるでしょうし、時間が経てば経つほど当時の情勢がわからぬものが評価するということになります。背景や経緯ばかりではありません歴史的事実についても評価は変わるのです。

 

初めに申しておきますが、いい国(1192)つくろうと憶えた鎌倉幕府の創建が、幕府の基本的な機能は1185年に完成していたということから今では教科書で1185年になっているそうです。

 

しかし これを「歴史修正主義」という人は

いないでしょう。後から解った事実、経緯や背景から見方は変わるのです。歴史を修正したのではなく、より当時の状況に寄り添って正しいだろうという方向に合わせたということです。現代の尺度で見るべきか、当時の状況から許容すべきかを現代そして未来の人が選ぶということです。

 

しかしここに嘘があってはいけません。嘘や噂話で当時の歴史を語るならば、先人に対する冒涜ということになってしまいます。

 

また私の回りくどい説明から入りました。明治維新の評価も思想信条からも違えば、歴史観からも異なります。判断は読む人に委ねられるので、より正確だと思うこと、より真実と信ずるほうを選択してください。教科書検定しないと選択する教科書で書かれている内容が異ってしまうのです。教科書だってそうなのです。

 

 前置きがなくなりました。明治維新はなぜ起きたのか、私は前項の連続性から地政学的な理由で極浅く説明したいと思います。関心を得た人は自分で調べましょう。知らねばならない歴史です。

江戸幕府は260年間「幕藩体制」を基に統治されてきました。鎖国も現代教科書から消えて言葉になっているそうで、国を一部限定的に開いて、大名に藩を納めさせて監視することで内戦のない260年を築いたわけです。

その前後アジアはどうだったかというと

 

 ・1571年スペインがフィリピンを

  (後にアメリカに代わる)

 ・1602年にオランダは東インド会社を設立し

   香料とコーヒーの輸出を独占、300年支配

 ・1863年にカンボジア1885年にベトナムを

   フランスが

 ・1765年インド1886年ビルマ

   1895年マレーシアをイギリスが

 

次々に植民地にされていたのです。

 

香辛料や石油など天然資源を得て本国を繁栄させていたわけです。東南アジアで植民地にならなかったのはタイくらいだったのです。清もアヘン戦争の不平等条約をきっかけに割譲や租借地として分割されていきます。

 

幕府の統治能力が低下する中、長州藩士、薩摩藩士を中心とする「尊皇攘夷」派の志士が出てきます。反政府の活動家ですから、見方によっては反逆者ですが、天皇を尊び外国を打ち払うという尊王攘夷派の存在の反対側には弱腰で外国を招き入れる危険な幕府という構図があったわけです。

 

1839年アジアの大国清と英国の間にアヘン戦争が起こります。ヨーロッパの対清の権益を実質握っていたのはイギリス。アヘン貿易を禁止する清に対してイギリスは清をアヘン漬けにしていきます。取り締まりを強化する清に砲撃を浴びせて不条理に打ち負かしました。この時割譲されたのが香港。以後香港はイギリスの植民地を経て1997年にChinaに移譲されますが特別行政区となります。(2047年まで社会主義にならない約束が今反故にされようとしていますが)西洋の軍事力との圧倒的な差は日本に伝わり幕府はこれを恐れ増々弱腰になっていき逆に攘夷派は危惧を抱き攘夷を行う意を強くしていきます。

 

日本は資源がなかった故に植民地としての魅力がなかったという説もあります。確かに天然資源も農産物も特に魅力的なものはないけれど地図を見ると地政学的には、よい場所にある島ではあります。

1853年1回目のペリーの来航で尊皇攘夷派の憂いていたことが現実になります。帆船で海運していた程度の社会に蒸気機関に大砲を付けた軍艦が黙々と煙を吐いてやってきて空砲を撃つのですからアジア人は見ただけで降参です。開国を迫るペリーに1回目は検討するということで帰ってもらいましたが約束の1年を待たずにやってきます。

幕府は結局圧力に屈し1854年に「日米和親条約」を締結。イギリス・ロシア・オランダとも同様の条約を結ぶのですが外交経験が乏しい上に外法権や関税自主権の放棄等が含まれる不平等条約であったわけです。今でも日米安保条約で不平等な内容が問題になっていますが、そういう点では日本外交は変わっていないのかもしれません。しかし攘夷派の志士は違ったのです。

 

彼らに軍艦が作れるのだから我々も作ろうとなります。1873年(明治6年)に横須賀の造船所にてフランス人の指導の下、日本初の軍艦「清輝」が起工され1875年に竣工。この辺の気概が現代人には受け継がれていないのが残念です。

薩英戦争を御存じでしょうか。1863年の生麦事件(現神奈川県横浜市鶴見区生麦で薩摩藩国父島津久光の行列を馬で横切ったイギリス人を藩士が殺傷した事件、日本では当然でもイギリス人にはわからない)の解決と補償を艦隊の力を背景に迫るイギリスと、主権統治権のもとに兵制の近代化で培った実力でこれを排除し防衛しようとする薩摩藩兵が、鹿児島湾で戦うのですよ。街はだいぶ焼かれたけれど、世界最強のイギリス海軍も横浜に逃げて行ったのだから善戦ですね。今の日本で一地方自治体が他国相手に戦争するなんて考えられませんが。

 

下関戦争を御存じでしょうか。長州藩は下関海峡を通る外国船を無差別に砲撃する攘夷を仕掛けます。1863年と1864年にイギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強連合四国との間に武力衝突を起こします。一地方自治体がまた思い切ったことをします。道州制導入ではこんなことも起きるのでしょうか。勝ち目はありませんでしたが、これを戦ってやろうじゃないかっていう気概が現代人としては理解できないながら羨ましくもあります。

 

これらの戦争で幕政下では攘夷が不可能だということを攘夷派は悟り、倒幕運動に拍車がかかります。大政奉還(政(まつりごと)を朝廷にお返ししますという意味の王政復古です)翌年の1868年、鳥羽伏見で衝突した幕府軍は薩英戦争によりイギリスと近くなった薩摩との薩長連合軍の圧倒的兵力の前に勝負にはりませんでした。そのうえ薩長軍に錦の御旗(朝廷軍旗)が揚がり幕府側が朝敵となって明治維新の方向性が決定するのです。明治維新とはある一つの現象ではなくてこれら尊王攘夷運動の主に1953年(ペリー来航)から1867(大政奉還)の約15年間に起きた改革のことをいうのです。政権を力で転覆させた一面も持っていて現代に於いては個人的に肯定できませんが進んだ道は間違っていなかったと思っています。

 

次回は日清戦争です。

 

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日清日露大東亜(1) 日本乙女を守る

2020年04月26日

主権回復の日(4月28日)が近いので関係することを書きたいと思います。

 

日本国の形を見てください。なんとなく女性的な優しい形をしていると思いませんか。昔から「神州」「敷島」「大八洲」などと呼ばれて日本人は国土に誇りを持ってきたわけです。

 

しかし現代人の私たちは日本人であることを恥じ、

誇りを持てないように教育されてきました。

 

それは余談として、この6,852の島(周囲100m以上)から成る麗しの日本列島。火山列島故の災害を克服しながら、平和に過ごしていればよかったのですが、他国と交わるようになってから、そうは言っていられなくなってしまいました。

 

下の地図↓ 

他国からの視線で見てみると。(これは現代の国境が書いてある地図です)邪魔ですね。今の国名でロシアとChinaと北朝鮮と韓国からみると(旧満州もChinaです)この麗しい形がいかにも巧妙に配されているように思えてなりません。

現代に於いては、ロシアとChinaからみて太平洋という大海への出口を塞いでいます。ロシアは無理に日本海に張り出しているような形になっていますが、ここにウラジオストク港があります。北海道以北の海は冬凍ってしまうので軍港として自国の港をここに持つのは重要なことなのです。

 

Chinaは台湾と尖閣(沖縄とも言いだしています)が自国領であることにしないと閉塞されてしまいます。最近、半ば強引に南沙諸島のサンゴ礁を埋め領有権も主張して実質軍港を作ってしまいました。強引ですが これが彼らのやり方で、相手が引いたら出る。いったん出たら絶対に引きません。誰に何と言われようと。話し合いは通じないのです。果たして今の日本は尖閣と沖縄を守れるでしょうか。一旦乗っかられたら負けです。竹島のように。

間違っていようがどっちが正しかろうが実効支配されたら負けなのです。

地政学の話でした。領土の負け惜しみは、徐々に書いていこうと思います。知識として。しかし負け惜しみです。北方領土も竹島も やがては尖閣も正当性などあっても無意味なのです。乗っかられたら終わり。

 

日本のこの魅力的な形が罪なのでしょうね。取りたくなる形と位置にあるでしょう。ある時は出城として、またある時は防波堤として使えそうな形をしているではないですか。

 

この領土を守るのは我々日本人なのですが、武力でも、人力でも守る力を持っていません。それは私たちの国土を狙う人から考えて非常に都合が良いことなのです。日本が自分で自分を守ることを放棄している憲法。これをずっと持ち続けてもらった方が少しずつソフトに侵攻していけるわけです。武力を使わずに。

 

なんで北海道と沖縄で、国と地方を分断するような動きがあるのでしょうか。よく考えましょう。それらの分断工作や他国人と日本人が平等ではない法律。例えば日本人がChinaの土地は買えないが逆はできる。とか、ヘイトと言われ取り締まられる法律が外国人は日本人を訴えられるけれど反対(日本人は言われっぱなし)はできないとか、極々 おかしいことがまかり通っています。

 

もっと恐れるべき国防動員法です。Chinaも韓国も国防動員法(韓国は国防義務)で戦時には、全国民が軍属として戦争に加わる、ということは万一それらの国と戦時となると。日本人とそれらの国の人は、立場が全く違ってくるということです。日本人には そんな権利はないので反撃はできませんが彼らは国のための行動を起こせるということ、どんなことが起きるかは一度は考えてみるべきと思いますが、仲よくしようと個人レベルで言っても国が始めてしまうと、それをやらないと彼らは法律違反になってしまうのです。

 

今回のコロナ禍を戦争に例える人がいますが、戦争はもっと厳しいでしょう。日本人がコロナ対策で 一つになれないようでは相手から戦争を仕掛けられても、すぐ降参でしょうし、既にソフトな戦争は始まっているのです。

 

気づいていない人はボーっとしすぎです。サラミ戦術=調べてください。

Chinaは第一列島線、第二列島線を定め30~40年程度の目標を定めて進攻しています。彼らは計画を何十年、或いは百年単位かけても必ず実現させます。現在は第五列島線まで我が国の防衛白書に記載があります。この実行力は見習うべきです。南沙諸島のサンゴ礁埋めてもアメリカが何かできましたか? 船を近くに航行させるくらいのものです。Chinaのほうがしたたか。

 

私たちはこのかわいらしい国土を守りたい。

今回のことでよく分かりました。コロナ問題でどの国も自分のところで手一杯、自国が一番。当たり前ですが。

国防に関したって戦争になるくらいなら守らなくてもいいとか、経済的に生きられるなら他国に依存でもよいのではないか。などという人が出てくるのではないかと思うほど混乱して、2~3か月で、もう限界と言っています。

この動きを見ると日本乙女(私の日本列島のイメージ)は守れるか。いや一緒に守ってください。

とりあえず現実を知りましょう、勉強しましょう。

 

日清・日露・大東亜がなぜ起こったのか。そのすべてがこの一枚の地図で説明できるのです。

この地図を使って自国の立場から一方的に説明していきます。

(正確を期すため ご自分でも調べてみてください)

 

 

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